46 / 57

45.冬の最果て(前編)

 北に進めば進むほど、当然と寒さは厳しさを増していく。手袋をこすり合わせ、テオバルドは冴え冴えとした月を見上げた。  ――エンバレーは、もっと寒かったんだろうな。  ここよりもさらに北の、未踏だった果ての大地だ。娯楽もなにもないところと師匠は評していたけれど、そのとおりだったに違いない。  その空白の地で、四年。長い時間だとテオバルドは思う。だが、それだけの時間を過ごしても、あの人が変わることはなかったのだ。  幼いころからずっと、そういう人だった。ぶれのない、凛とした人。だから、自分がなにを尋ねても、彼は彼のままだった。  でも、やっぱり余計だったんだろうな。宿営用の天幕のそばで焚火番を決め込んだまま、遠征前に訪れた森の家でのやりとりを回想する。  取り繕ったとおりで、余計なことを聞いたと承知している。なにも気にしていないという顔で「戻りました」と会いに行けば、彼も同じ顔を向けてくれるのだろうけれど。 「あー、寒い、寒い」 「ジェイデン」  防寒具を押さえながら歩くジェイデンの肩には、うっすらと雪が積もっている。見回りを終えて戻ってきた友人を、テオバルドは笑顔で労わった。 「おつかれ。なにごともなく?」 「なにごともないが、特研の連中はあいかわらずピリピリとしているな」  夜間の見回りより、よほど気を使ったということらしい。苛々と茶色の髪を掻きやりつつ隣に腰を下ろしたジェイデンに、はは、と苦笑を返す。吐く息が白い。 「今日の昼の中型への実験が、いまひとつだったみたいだからね。焦ってるし、苛立ちもあるんじゃないかな」 「おかげで、うちの隊員の腕が一本飛ばされかけたんだがな。あいつら、気づいてもいなかっただろ。認識した上で気遣う気がなかっただけかは知らないが、感謝のひとつもないんだ。どちらでも同じだな」 「フィールドが違うからと思うしかないよ」  特殊任務という名目で、矛を収めるしかない。なにせ、上が了承しているのだ。静かに笑ったテオバルドに、ジェイデンも諦めたような溜息を吐いた。 「あの薬草学オタクども。正直、あそこまでひどいとは思ってなかったぜ」  まぁ、それはそのとおりなんだよな。内心でテオバルドは同意を示した。  遠征隊に彼らが帯同すると聞いた時点で、常より気を使う任務になると予想していたし、覚悟もしていた。だが、一週間が経った今、当初の読みが甘かったと認めざるを得なくなっている。  ――向こうは向こうで、上層部からかなりせっつかれてるみたいだし、苛々するのも多少はしかたないと思うけど。でも、もう少し、協力体制を取ってくれないと。  再びの苦笑を刻んだテオバルドに、ジェイデンが肩をすくめる。下っ端の一隊員が取れる反応など、お互いその程度だ。  中型以上の魔獣討伐はチームで行うことが基本だが、葬ったあとは亡骸を埋め、全員で祈りを捧げることになっている。魔獣とて、命のある生き物だ。討伐する個体も、人間に害を成した成獣、あるいは人間に害を成しかねない距離に生息する群れと定められている。  脅威は打ち払うものの、むやみに命を奪いたいわけではない。それが騎士団のスタンスだ。ただ、帯同した薬草学研究所の面々のほとんどは、考えが違ったらしい。  魔獣を実験体としか見ておらず、後方から、あれを狙え、あれは殺すな、いや、あれを押さえろ、と口ばかりを出してくる始末だ。  アイラともうひとりが、騎士団とのあいだをどうにか取り持とうとしているが、成果が出ているとは言いがたく。結果として、騎士団側の不満感情は高まり続けている。  正直、これほどまでに隊の空気が悪い遠征は、テオバルドもはじめてだ。  「明日は大型のポイントに出るっていうのに。頼むから、中型のときと同じ調子で余計なことはしないでほしいね」 「さすがに大型を目の当たりにしたら、同じ調子ではいられないんじゃないかな」 「だといいが。やつら、ちょっと頭がぶっ飛んでないか?」 「そうかもね」  さらりと認めて、でも、とテオバルドは請け負った。 「大丈夫。アイラはちゃんと守るよ」  明日の特殊任務の担当者はアイラで、テオバルドは任務完遂までサポートする役目を担っている。昼間に補佐を担当した後輩は、振り回された挙句に大怪我を負うところだったので、「二度とやりたくない」と管を巻いていたが。任務は任務と割り切っているし、自分の組む相手はアイラだ。うんざりなどと言うつもりはない。 「おまえを疑うつもりはないが」  ぽつりと呟いたジェイデンの視線が、特殊任務で帯同している一団の天幕へ動いた。  風に乗ってときおり届く話し声は、ピリピリとした空気をまとい続けている。今しがたひときわ大きく響いた声は、彼らの中で一番上の立場にある魔法使いのものだ。 「こういう空気はよくないな。軽微なミスがとんでもない事態を引き起こしかねない」   「そうだね。そこは肝に銘じておかないと」 「まともそうな言動を取り繕っているが、アイラも目の色が違う」 「そうかもね」  素直にテオバルドは頷いた。ジェイデンが言うのであれば、事実だろうと思ったからだ。  それに、アイラの根幹は、緑の大魔法使いの役に立ちたいという純粋な思いでできている。その憧れの大魔法使いから期待していると激励を受けたのだ。必死で応えようとするだろう。自分も、きっと、そうする。 「テオバルド」 「なに?」 「おまえも少し気落ちしているように見えていたんだが、大丈夫か」  学院生時代のころのような問いかけに、テオバルドは笑った。 「なんでもない、大丈夫だよ」 「だが」 「ジェイが言ったとおりで、この空気で、この寒さだからね。多少はうんざりとしてるけど。でも、それだけ。大型をきっちり仕留めたら、俺たちは一区切りだ。早く戻るためにも、やるべきことをしっかりやるよ」 「……そうだな」  にこりとほほえめば、ジェイデンもそれ以上は問わなかった。お互い、もう子どもではないのだ。大丈夫と言い切れば終わる話である。  あの寮にいたころの自分は、精神的に子どもだった。師匠に対して抱く感情のおかしさに気づいておらず、知るきっかけをジェイデンに与えられた。その彼の目に、今夜の自分がどう映っているのかと想像すると、ほんの少し恐ろしい。  ――でも、あのまま自覚しなかったら、「良い弟子」でいられたのかもしれないな。  父のことが好きだったのかなどと邪推することもなく。ここまで苦しい思いをすることもなく。あったかもしれない未来を考えようとしたものの、よくわからなかった。  そうであれば、楽にはなるのだろう。だが、叶うことがなくとも、彼を好きだという気持ちをなかったことにしたくなかった。  ――帰ったら、ちゃんと話そう。  なにもない顔で会いに行くことは簡単だ。あの人も、きっとそれを望んでいる。けれど、いいかげんにこの感情に区切りをつけないといけない。  言わないと決めたはずのことを当人の前でこぼすようでは、もう駄目なのだ。内心でひとつ頷いて、夜を見上げる。  いつどんな心地であっても、月は変わらず美しく、やはり、あの人みたいだと思った。

ともだちにシェアしよう!