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46.冬の最果て(中編)

「特殊任務の重要性も承知しているが、おまえが続行不能と判断した場合は、多少強引な方法であっても中断させてかまわない」  隣に立った隊長に囁かれ、テオバルドは目線を動かした。 「昨日の中型で失敗をしているだろう。意地になる可能性があるが、中型と大型じゃ攻撃力も生命力も桁違いだ」  過去に幾度も大型の魔獣討伐を経験している隊長の言葉は重みが違う。小さく頷いて、テオバルドは視線を戻した。十数メートル先、綿密に張られた巨大な魔法陣の中央に、目標であった大型の魔獣は倒れている。  事前に用意した魔法陣に誘い込み、動きを封じた上で、攻撃力の高い魔法で仕留める。それが、大型の魔獣を討伐する際の一般的な手順だ。けれど、今回のテオバルドたちは動きを封じたところで「待て」を余儀なくされていた。  今は薬草学研究所の魔法使いたちによる最終調整の真っ最中なのだ。それが終わり次第、アイラが試薬を打ち込む手筈になっている。 「昨日はレオが腕を吹っ飛ばされかけたで済んだが、『かけた』では済まなくなる」 「承知しました」  押された念に、テオバルドも改めて了承を返した。  視線の先の大型の魔獣はぐったりとしているものの、死んでいるわけでも、意識を失っているわけでもない。冷たい風の音に獣の唸り声が混ざっている事実が、なによりの証拠だ。  討伐経験の少ない若手には青くなっている者もいるようだったが、無理のない話だろう。  通常の魔法陣に加え、四方から中堅の魔法使いが魔法で抑え込む念を入れた布陣を取っているが、これから行うことは、今まで誰も手を出したことのない領域なのだ。  はっきり言って、無謀だ。  それが、特殊任務の詳細を聞いたときの、テオバルドの偽らざる本音だった。顔をしかめたアシュレイの反応も、致し方ないものと思う。  だが、無謀とも言える許可が下りた背景には、緑の大魔法使いの口添えがあるのだ。  ――緑の大魔法使いさまの名前を出したときも、師匠は不快そうだったけど。  あれは、いったい、どういった表情だったのだろうか。  国民から慕われる、善良な大魔法使い。緑の大魔法使いは、そういった稀有な存在だ。そんな人物が勝算のない賭けに出るとは思えないが、テオバルドには、師匠の「もう少し足元を固めてから、次の段階に移ったほうがいい」という指摘のほうが、よほどまともに思えた。  アイラたちの一団に目を向けると、ちょうどアイラが立ち上がったところだった。そのままこちらに歩み寄ってくる。 「完了いたしました。いつでも実行可能です」  アイラの報告に、隊長が「よし」と頷く。 「それでは開始とするが、くれぐれも引き際を誤ることのないように。きみだけの問題ではなく、ほかの隊員にも危険が生じることになる」 「もちろんです」  強気に応じたアイラが、隣にいたテオバルドを振り仰いだ。 「それじゃあ、テオバルド。お願いね」 「うん、任せて」  いつもの調子を選んで請け負い、彼女の半歩前に進み出る。アイラは、今、魔法使いの力の象徴である杖を所持していない。特殊任務のデータの採取に全力を注ぐためだという。テオバルドの役割は、その彼女の安全を薬剤投与の結果を確認するまで保証することだ。 「大丈夫よ、大丈夫。絶対に成功できるわ。問題はなにもないはずだもの」  ぽそりと聞こえた声に、そっと背後を窺う。小柄な身体からは、重大任務に向かう緊張だけでない必死さがにじんでいるようにも見える。  ――目の色が違う、か。  昨日の夜、ジェイデンが言っていたことだ。  研究が大詰めで気が立っている節もあるとは思うが、自分がなにを言ってもまったく耳を傾けようとしないのだ、と。  ――緑の大魔法使いさまから直々に応援をいただいたとかで、とにかく尋常じゃない熱の入れようなんだよ。今回も絶対に成果を出さないといけないだのなんだのって。絶対なんてあるわけがねぇのに。嫌な頑なさだぜ、まったく。  呆れた態度を装っていたものの、心配を隠しきれていなかった友人の横顔。  気をつけないといけないと改めておのれに誓う。アイラに限って問題ないと思いたいが、視野が狭まっていると、判断が危うくなる可能性があるからだ。万が一の場合は、隊長に言われたとおり、引きずってでも中断するほかない。  直後は恨まれたとしても、アイラであれば理解をしてくれるだろうし。テオバルドは正当性を言い聞かせた。期待に応えたい気持ちはわかるが、その意地で彼女や仲間を危険に晒すわけにはいかないのだ。  そっと冷たい空気を吸い込み、魔法陣の内部に足を踏み入れる。特有のピリッとした感覚。中心に近づくにつれ、魔獣から感じる圧は否が応にも増していく。  大型の魔獣とこれほど近距離で相対すること自体がはじめてだったが、それにしても、とんでもない魔力の量だ。  ――師匠にはじめて会ったときも、こんなふうだったな。  彼の尋常でない魔力の保有量に、幼かったテオバルドは圧倒された。それと似た感覚ということは、自分より格が上ということだ。  杖を握る手に力を込め、待機していた同僚の魔法使いふたりに声をかける。全体を抑える魔法陣とはべつに、試薬を打ち込む前足部分を固定しているのだ。 「問題ありませんか」 「ありません。薬を注入後、百のカウントを開始。その後、この右前腕部のみ魔法陣の効力を切ります。よろしいか」  魔法陣の効力を切ることで、注入された薬の効果の有無を見るということだ。反応がなければ、それで良し。魔力の反応が見られたときは、残念だが失敗ということになる。  最後の確認は、特殊任務を実行するアイラに向けられたものだった。はっきりと頷いたアイラが、躊躇なく膝をつく。薬剤を確認する手に迷いはないが、額にはじっとりとした汗が浮かんでいた。彼女にとっても、大型にこれほど接近する経験ははじめてに違いない。  ……隊長は、これでも子どもの部類だって言ってたけど。  成獣であれば、いくら上の許可があろうとも、現場の責任者として許可はできなかった、とも言っていた。それほど危険な存在なのだ。  北の地でいくつも葬ったと平然と話していた師匠は、やはり、とんでもないのだろう。こんな場面にもかかわらず、改めて思い知った気分だった。  ――どれほど追いかけても、あの人に追いつける気はしないな。  子どもだったころは、必死に研鑽を積めば追いつくことができると信じていた。だが、大人になった今、あの深緑のローブをテオバルドはより遠いものに感じている。  金色の髪も、緑の瞳も。自分に向けられていたはずの柔らかな笑みも。なにもかもが、今はただひどく遠かった。 「それでは五のカウントのあとに注入します。以降、合図はすべてこちらで行います。五」  緊張をはらんだ声が、カウントを進める。ゼロのカウントと同時に、アイラが注射針を魔獣に打ち込んだ。呻く声が大きくなり、完全に抑え込んでいるはずの右足の指がぴくりと動く。 「アイラ」 「大丈夫。この反応は昨日の中型のときにもあったの。もう少しこのまま待って。あと九十五」 「でも」  中型と大型では魔力の桁が違いすぎる。魔獣は強く押し返そうとしているのだろう。その抵抗を防ぐように魔法陣に流れる魔力も強くなる。けれど、これが彼らの最高値のはずだ。長くは続かない。大型がさらに暴れるようなことがあれば、制御不能に陥りかねない。 「大丈夫! あと九十」 「……っ、いけます」  同僚の口から飛び出した苦しそうながらもはっきりとした了承に、テオバルドは逡巡を呑み込んだ。  ――いざとなったら、俺が一撃を防ぐしかないか。  そのあいだにどうにか退避してもらうほかない。最初の攻撃さえ防げば、後方からの支援が入る。希望的な観測に過ぎないが、最悪の事態を引き起こさないくらいのことはできるはずだ。アイラと彼らを守ることはできる。 「五十、あと半分」  アイラのカウントとともに、魔獣の指の動きはたしかに鈍くなりつつあった。ぐるぐると唸る声は変わらないものの、魔法陣の効力を打ち破ってまで動き出しそうな気配はない。 「三十、……二十」  魔獣に神経を集中させ、カウントが終わるのをテオバルドは待った。けれど、本番はこのあとだ。右足だけとは言え、無力化させている魔法陣の効力を切るのだから。 「三、二、一、ゼロ。お願いします!」  その合図で、右前足を抑えていた魔法陣の効力がゆるむ。なにも起こる気配はない。  ほっと安堵したのか、魔法使いのひとりが力を抜いた、まさにそのとき。魔獣の爪がかすかに動いた。

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