48 / 57
47.冬の最果て(後編)
「危ない!」
危険を周知すると同時に、杖から雷を放つ。魔獣の爪先から生まれた稲妻と相殺され、白い空に雷鳴が走った。
すぐそばで上がった悲鳴のような声に続き、抑え直すことは不可能との報告が上がる。先ほどの稲妻で、右足を抑えていた魔法陣の効力が完全に切れたのだ。だが、そこ以外の部分の抑えは機能している。
そのあいだに退避して、体勢を立て直すしか道はない。
「アイラも一度下がれ!」
「嫌!」
即座に言い返したアイラが、魔法陣の修復を図ろうとしている同僚を押しのけ、新たな注射針を取り出した。もう一度、打ち込むつもりなのだ。無謀がすぎる。
「諦めろ、アイラ!」
「嫌よ! 諦めたら、今までの研究がぜんぶ無駄になっちゃうじゃない! 緑の大魔法使いさまに顔向けできないわ!」
魔力をゼロにする魔法薬。その効果を大型の魔獣で確認するためにアイラは帯同している。けれど、効いていないのだ。失敗だと認めるほかない。
「なにが駄目だったの? データを、せめてデータだけでも集めないと」
薬の効果をもう一回分見る猶予がないことは明白だった。言葉による説得を放棄して、小柄な身体を抱き上げようとする。だが、アイラは良しとしなかった。
拒もうと注射器を振りかぶり、パリンと軽い音が立った。混乱の中、杖に当たったのだ。軌道を追ったアイラの瞳が、「え」と驚愕に染まる。
「――っ、テオバルド!」
「上だ!」
遠くから響いた怒号に、使い慣れた魔法を発動させようとして、愕然とする。できなかったからだ。自分の中にあるべき魔力を、なぜかほとんど感じ取ることができない。
――あの薬か!
たしかに顔に数滴かかった感覚があった。たったそれだけで魔力が消えたとは信じがたかったが、だが、実際にないのだ。
避けきれないと悟り、アイラを抱え込んで地面に伏せる。けれど、覚悟した衝撃が訪れることはなかった。後方からの支援の結果か、あの恐ろしいほどだった圧は完全に消え去っている。
――あの大型を、誰かが一撃で……?
そのような芸当をできる魔法使いが、この部隊にいただろうか。
信じられない思いで、テオバルドは上体を起こした。振り返って確認したものの、やはり、大型の魔獣は倒れ伏している。
「テオバルド……」
呆然とした声に、テオバルドは視線を戻した。へたりこんだままアイラが呟く。
「あなた、生きてる?」
「生きてる。……きみも大丈夫そうだね」
いまさらながらに震え出したアイラに手を差し伸べ、その身を引き起こす。蒼白の顔で魔獣を確認したアイラが、テオバルドを見上げた。
「ごめんなさい。私、その」
「いや、いいんだ」
憑き物の落ちた顔を前に、責める気は起きなかった。彼女が緑の大魔法使いに心酔していたことはよくよく知っている。それに、ひとまずは誰の命も奪われていないのだ。
隊長から処分が下る可能性はあるが、テオバルド個人としては、なにも言うつもりはない。そもそも、自分がうまく退避させていれば済んだ話だ。
魔法陣の外から駆け寄った隊員たちは、魔獣の状況の確認にかかり始めている。合間に寄こされる声に「大丈夫です」と頷いて、テオバルドは杖を掴み直した。指先に走る、ピリッとした感触。大丈夫だ。もう、魔力は戻っている。
「アイラ」
呼びかけに、アイラはがばりと頭を下げた。
「私、本当にごめんなさい」
「大丈夫。魔力ももう戻ってる。でも、本当に一瞬だったけど、魔力の流れが切れたような感覚はあったな」
「え……」
「おい、テオバルド、アイラ」
険しい表情で近づいてきたジェイデンに、テオバルドは先手を打って明言した。
「大丈夫だよ。アイラに怪我はないし、俺も問題ない」
「……ごめんなさい、その、心配をかけて。私、ちょっとどうかしてたわ」
ジェイデンに対しても素直に頭を下げたアイラに、ジェイデンは渋々と表情をゆるめた。汚れた赤銅色の髪を撫でられ、アイラもほっとした顔になる。その様子を見とめ、テオバルドは改めてジェイデンに問いかけた。
「それより、誰がやったの? あの大型の魔獣を一撃で」
「……おまえじゃないのか?」
「え?」
不審を隠さないジェイデンの反応に、眉を寄せる。
「どういうこと?」
「どういうこともなにも」
こちらが本気で困惑しているとわかったのか、ジェイデンは声をひそめた。
「遠目からだったが、おまえから緑の光が出ているように見えた。だから、てっきりおまえだと」
「緑の光……」
「あれを見ればわかると思うが、とんでもない力だったぞ」
目を焼かれそうだった、と続けたジェイデンの視線が、ちらりと魔獣に動く。それはそうだろうとわかる。なにせ、あれを一撃で倒した力だ。とんでもなかったはずだ。
「本当に、身に覚えはないのか」
「いや、……」
呟いたきり、テオバルドは沈黙した。緑の光という形容に、理屈ではないところで嫌な予感がしたのだ。
それに、これほどまでのとてつもない力が、一魔法使いのものであるだろうか。
――おまえなら、絶対に大丈夫だ。安心して行けばいい。
遠征に発つ前に訪れた森の家で、アシュレイはそう見送ってくれた。あのときは、自分の感情を抑えることに精いっぱいで、なにも気がつかなかった。
だが、おかしい。かつて、幾度となく「絶対などという根拠のない言葉を使うな」と自分を指導したのはあの人だ。あの人がそんな言葉を使ったこともないはずだ。少なくとも、記憶にある限り、テオバルドは聞いたことがない。
それなのに、なぜ。
――おまえに、限りない幸福があらんことを。
ふいにもうずっと昔に聞いた声を思い出した。優しい師匠の声。愛おしむように幼かった自分の前髪をわけて、額にキスを落とす。アシュレイの、おまじない。
「……呪 い?」
無意識にひとりごちる。
そうだ。あれは呪 いだ。母親が子どもに与える祈りとは桁の違う、大魔法使いの加護。どくん、どくんと心臓がやたらと大きな音を立てている。
――魔法の力は無限に湧いてくるものではない。とくに大きな影響を与える魔法には、相応の対価が必要になる。そのことを忘れるな。
だとすれば、これの対価はなんだ。自分のいない場所で、これほどまでの力を発動させる、対価は。
「帰る」
唐突に宣言したテオバルドに、ジェイデンがぎょっとなにかを言っている。その隣でアイラもなにか言っているようだったが、ほとんど耳に入らなかった。
帰らないといけない。確認しないといけない。任務中とわかっていても、焦燥を抑えることができなかった。自分が持って生まれた魔力は、この国と民にすべてを捧げてもいい。けれど、この心は、心だけは自分のものだ。
アシュレイは怒るかもしれない。でも、それでもいい。馬鹿な弟子といつもの調子で怒ってくれるのであれば、それで。
「帰るって、テオバルド。あなた、どこに帰るのよ!」
どこもなにも、自分の帰る場所は、あの人がいるところだけだ。そう応じる代わりに、帰らせてくれ、とテオバルドは繰り返した。
アイラと顔を見合わせたジェイデンが、小さく息を吐いた。こちらに向き直り、ぐっとテオバルドの両肩を掴む。
「おまえがそこまで必死になるということは、あれは、おまえのお師匠の力なんだな」
「そうだ」
その目を見つめて、はっきりと頷く。
「この国の宝である大魔法使いさまに、なにかあったかもしれないんだな」
ジェイデンが練った建前だ。承知の上で首を縦に振ると、手を離したジェイデンが、もう一度肩を叩いた。
「それで、きっと許可は出る。だから、あと少し待っていろ」
言うや否や、魔獣の見分の指揮を執る隊長のもとへ走っていく。逸る心を抑えて見守っていると、すぐ隣にアイラが立った。
「大丈夫」
「……アイラ」
「大丈夫よ、テオバルド。私たちが憧れる大魔法使いさまは、とてつもなく優しくて、とてつもなく強い方たちだもの。だから、大丈夫よ」
「うん」
そうだね、と頷く。そうするほかなかったからだ。けれど、テオバルドはあれほどまでに強力な呪 いを知らない。それが成就した結果、どうなるのかも知らない。
握りしめたままの指先に、そっと視線を落とす。待つだけの時間が途方もなく長かった。
自分など足元にも及ばない強さを持つ人だと知っている。でも、あの人は、他人のために自分を賭けることができる人なのだ。
「テオバルド!」
ジェイデンの声に、はっとして顔を上げる。
「大丈夫だ、行っていい」
「ありがとう! アイラもごめん、大丈夫だから」
保証もなにもない言葉を告げて、勝手を隊長に詫びると、テオバルドは馬に飛び乗った。
一刻も早く、グリットンに戻りたかったのだ。アシュレイの顔を見て安心したかった。なにごともない、と。大袈裟だ、と。そう言ってほしかった。
――言っておけば、よかった。
あの人は、大魔法使いだから。誰よりも強い人だから。自分より先になにかがあるわけはないとテオバルドは信じていた。だが、絶対などということが、あるわけはなかったのだ。
何度も、何度も。ほかでもない師匠に諭されていたことだったのに、自分はなにもわかっていなかった。
懸命に馬を走らせながら、焦る心の半分でテオバルドは悔やんだ。
もっと素直に伝えておけばよかった。
こんなことになるのなら、あなたのことが好きなのだと、はっきりと伝えておけばよかった。
ともだちにシェアしよう!