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47.冬の最果て(後編)

「危ない!」  危険を周知すると同時に、杖から雷を放つ。魔獣の爪先から生まれた稲妻と相殺され、白い空に雷鳴が走った。  すぐそばで上がった悲鳴のような声に続き、抑え直すことは不可能との報告が上がる。先ほどの稲妻で、右足を抑えていた魔法陣の効力が完全に切れたのだ。だが、そこ以外の部分の抑えは機能している。  そのあいだに退避して、体勢を立て直すしか道はない。 「アイラも一度下がれ!」 「嫌!」  即座に言い返したアイラが、魔法陣の修復を図ろうとしている同僚を押しのけ、新たな注射針を取り出した。もう一度、打ち込むつもりなのだ。無謀がすぎる。 「諦めろ、アイラ!」 「嫌よ! 諦めたら、今までの研究がぜんぶ無駄になっちゃうじゃない! 緑の大魔法使いさまに顔向けできないわ!」  魔力をゼロにする魔法薬。その効果を大型の魔獣で確認するためにアイラは帯同している。けれど、効いていないのだ。失敗だと認めるほかない。 「なにが駄目だったの? データを、せめてデータだけでも集めないと」  薬の効果をもう一回分見る猶予がないことは明白だった。言葉による説得を放棄して、小柄な身体を抱き上げようとする。だが、アイラは良しとしなかった。  拒もうと注射器を振りかぶり、パリンと軽い音が立った。混乱の中、杖に当たったのだ。軌道を追ったアイラの瞳が、「え」と驚愕に染まる。 「――っ、テオバルド!」 「上だ!」  遠くから響いた怒号に、使い慣れた魔法を発動させようとして、愕然とする。できなかったからだ。自分の中にあるべき魔力を、なぜかほとんど感じ取ることができない。  ――あの薬か!  たしかに顔に数滴かかった感覚があった。たったそれだけで魔力が消えたとは信じがたかったが、だが、実際にないのだ。  避けきれないと悟り、アイラを抱え込んで地面に伏せる。けれど、覚悟した衝撃が訪れることはなかった。後方からの支援の結果か、あの恐ろしいほどだった圧は完全に消え去っている。  ――あの大型を、誰かが一撃で……?  そのような芸当をできる魔法使いが、この部隊にいただろうか。  信じられない思いで、テオバルドは上体を起こした。振り返って確認したものの、やはり、大型の魔獣は倒れ伏している。 「テオバルド……」  呆然とした声に、テオバルドは視線を戻した。へたりこんだままアイラが呟く。 「あなた、生きてる?」 「生きてる。……きみも大丈夫そうだね」  いまさらながらに震え出したアイラに手を差し伸べ、その身を引き起こす。蒼白の顔で魔獣を確認したアイラが、テオバルドを見上げた。 「ごめんなさい。私、その」 「いや、いいんだ」  憑き物の落ちた顔を前に、責める気は起きなかった。彼女が緑の大魔法使いに心酔していたことはよくよく知っている。それに、ひとまずは誰の命も奪われていないのだ。  隊長から処分が下る可能性はあるが、テオバルド個人としては、なにも言うつもりはない。そもそも、自分がうまく退避させていれば済んだ話だ。  魔法陣の外から駆け寄った隊員たちは、魔獣の状況の確認にかかり始めている。合間に寄こされる声に「大丈夫です」と頷いて、テオバルドは杖を掴み直した。指先に走る、ピリッとした感触。大丈夫だ。もう、魔力は戻っている。 「アイラ」  呼びかけに、アイラはがばりと頭を下げた。 「私、本当にごめんなさい」 「大丈夫。魔力ももう戻ってる。でも、本当に一瞬だったけど、魔力の流れが切れたような感覚はあったな」 「え……」 「おい、テオバルド、アイラ」  険しい表情で近づいてきたジェイデンに、テオバルドは先手を打って明言した。 「大丈夫だよ。アイラに怪我はないし、俺も問題ない」 「……ごめんなさい、その、心配をかけて。私、ちょっとどうかしてたわ」  ジェイデンに対しても素直に頭を下げたアイラに、ジェイデンは渋々と表情をゆるめた。汚れた赤銅色の髪を撫でられ、アイラもほっとした顔になる。その様子を見とめ、テオバルドは改めてジェイデンに問いかけた。 「それより、誰がやったの? あの大型の魔獣を一撃で」 「……おまえじゃないのか?」 「え?」  不審を隠さないジェイデンの反応に、眉を寄せる。 「どういうこと?」 「どういうこともなにも」  こちらが本気で困惑しているとわかったのか、ジェイデンは声をひそめた。 「遠目からだったが、おまえから緑の光が出ているように見えた。だから、てっきりおまえだと」 「緑の光……」 「あれを見ればわかると思うが、とんでもない力だったぞ」  目を焼かれそうだった、と続けたジェイデンの視線が、ちらりと魔獣に動く。それはそうだろうとわかる。なにせ、あれを一撃で倒した力だ。とんでもなかったはずだ。 「本当に、身に覚えはないのか」 「いや、……」  呟いたきり、テオバルドは沈黙した。緑の光という形容に、理屈ではないところで嫌な予感がしたのだ。  それに、これほどまでのとてつもない力が、一魔法使いのものであるだろうか。  ――おまえなら、絶対に大丈夫だ。安心して行けばいい。  遠征に発つ前に訪れた森の家で、アシュレイはそう見送ってくれた。あのときは、自分の感情を抑えることに精いっぱいで、なにも気がつかなかった。  だが、おかしい。かつて、幾度となく「絶対などという根拠のない言葉を使うな」と自分を指導したのはあの人だ。あの人がそんな言葉を使ったこともないはずだ。少なくとも、記憶にある限り、テオバルドは聞いたことがない。  それなのに、なぜ。  ――おまえに、限りない幸福があらんことを。  ふいにもうずっと昔に聞いた声を思い出した。優しい師匠の声。愛おしむように幼かった自分の前髪をわけて、額にキスを落とす。アシュレイの、おまじない。 「……(まじな)い?」  無意識にひとりごちる。  そうだ。あれは(まじな)いだ。母親が子どもに与える祈りとは桁の違う、大魔法使いの加護。どくん、どくんと心臓がやたらと大きな音を立てている。  ――魔法の力は無限に湧いてくるものではない。とくに大きな影響を与える魔法には、相応の対価が必要になる。そのことを忘れるな。  だとすれば、これの対価はなんだ。自分のいない場所で、これほどまでの力を発動させる、対価は。 「帰る」  唐突に宣言したテオバルドに、ジェイデンがぎょっとなにかを言っている。その隣でアイラもなにか言っているようだったが、ほとんど耳に入らなかった。  帰らないといけない。確認しないといけない。任務中とわかっていても、焦燥を抑えることができなかった。自分が持って生まれた魔力は、この国と民にすべてを捧げてもいい。けれど、この心は、心だけは自分のものだ。  アシュレイは怒るかもしれない。でも、それでもいい。馬鹿な弟子といつもの調子で怒ってくれるのであれば、それで。 「帰るって、テオバルド。あなた、どこに帰るのよ!」  どこもなにも、自分の帰る場所は、あの人がいるところだけだ。そう応じる代わりに、帰らせてくれ、とテオバルドは繰り返した。  アイラと顔を見合わせたジェイデンが、小さく息を吐いた。こちらに向き直り、ぐっとテオバルドの両肩を掴む。 「おまえがそこまで必死になるということは、あれは、おまえのお師匠の力なんだな」 「そうだ」  その目を見つめて、はっきりと頷く。 「この国の宝である大魔法使いさまに、なにかあったかもしれないんだな」  ジェイデンが練った建前だ。承知の上で首を縦に振ると、手を離したジェイデンが、もう一度肩を叩いた。 「それで、きっと許可は出る。だから、あと少し待っていろ」  言うや否や、魔獣の見分の指揮を執る隊長のもとへ走っていく。逸る心を抑えて見守っていると、すぐ隣にアイラが立った。 「大丈夫」 「……アイラ」 「大丈夫よ、テオバルド。私たちが憧れる大魔法使いさまは、とてつもなく優しくて、とてつもなく強い方たちだもの。だから、大丈夫よ」 「うん」  そうだね、と頷く。そうするほかなかったからだ。けれど、テオバルドはあれほどまでに強力な(まじな)いを知らない。それが成就した結果、どうなるのかも知らない。  握りしめたままの指先に、そっと視線を落とす。待つだけの時間が途方もなく長かった。  自分など足元にも及ばない強さを持つ人だと知っている。でも、あの人は、他人のために自分を賭けることができる人なのだ。 「テオバルド!」  ジェイデンの声に、はっとして顔を上げる。 「大丈夫だ、行っていい」 「ありがとう! アイラもごめん、大丈夫だから」  保証もなにもない言葉を告げて、勝手を隊長に詫びると、テオバルドは馬に飛び乗った。  一刻も早く、グリットンに戻りたかったのだ。アシュレイの顔を見て安心したかった。なにごともない、と。大袈裟だ、と。そう言ってほしかった。  ――言っておけば、よかった。  あの人は、大魔法使いだから。誰よりも強い人だから。自分より先になにかがあるわけはないとテオバルドは信じていた。だが、絶対などということが、あるわけはなかったのだ。  何度も、何度も。ほかでもない師匠に諭されていたことだったのに、自分はなにもわかっていなかった。  懸命に馬を走らせながら、焦る心の半分でテオバルドは悔やんだ。  もっと素直に伝えておけばよかった。  こんなことになるのなら、あなたのことが好きなのだと、はっきりと伝えておけばよかった。

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