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50.悔いと未来(後編)
「さて、アシュレイ」
扉が閉まり、階段を下る音が聞こえなくなったところで、ルカは悠々と空いた椅子に腰を下ろした。緑の瞳は、過たずこちらを捉えている。
「エレノアの言うとおりの大馬鹿者だが、それでも、私が育てた私の弟子だ。よって、今一度問おう。きみは本当に、それでいいのか」
ともに年を重ねたい相手はいないのか、と尋ねたときと、まったく同じ口調だった。だが、いいもなにも、すべて自分で選んだことだ。
それに、よくないと答えたところで、なにがどうなるものでもない。そういうものなのだ。対価もなく願いを叶えることができるほど、魔法は都合良くできていない。
――そんなことは、大魔法使い が一番よく知っているだろう。
応じずにいれば、ふっと師匠が笑う気配がした。
「私はね、アシュレイ。きみはきみの命を粗末に扱いすぎだと言ったが、同時に、きみのかわいい弟子のことも見くびっていると、そう思うよ」
見くびっている。予想だにしなかった表現を、声にならぬ声で反芻する。
そんなつもりはなかったからだ。あの弟子がまだ幼かった時分にかけた加護であることは否定しない。だが――。
「あの子は必ずここに来る。きみが育てたきみの弟子だ。余計な贈り物に気づかぬわけがないだろう」
だから、とまっすぐにこちらを見つめたまま、ルカは言った。
「それまでにしっかりと考えたらいい。いや、考えるべきなんだ、きみは。きみ自身の望みはなになのか、ということをね」
なにも言わないアシュレイに、ルカはまた笑ったようだった。
「きみは十分この国に尽くした。禁忌を犯したからといって、望んではいけない謂れなど、元来どこにもないのだよ」
――師匠は、いつも大事なことほど言わないではないですか。
いったい、どれほどの時間が経ったのか。揺蕩う意識の中で思い出したのは、王都でテオバルドと再会し、しばらくが過ぎたころの記憶だった。
まだ冬がここまで深くなかったころのことだ。深酔いをしたテオバルドに、そんなふうに詰られたことがある。
テオバルドはもう子どもではない。これからは適切な距離を取って見守っていくべきだ。そう決めていたにもかかわらず、テオバルドの誘いを、アシュレイはほとんど断らなかった。
大人になっても変わらず声をかけてくれる現状が、単純にうれしかったのだ。どこか緊張した顔で誘うので、断ることが忍びなかったという理由もある。だが、それ以上に、声をかけてくれるあいだは、同じ時間を過ごしたかった。
テオバルドが結婚をすれば、子どもをもうければ。そういった人生の節目が積み重なるたびに、テオバルドにとって大切なものが増えていくたびに、師匠(自分)より優先されるものは当然と増えていく。そのことをアシュレイは知っていた。
「大事なことは、なにも。あなたの師匠のことを七年も黙っていたことが良い例です」
「……それは大事なことなのか?」
首をひねったアシュレイに、テオバルドが嫌そうに否定する。
「物のたとえです」
でも、と続けたところで、テオバルドは言葉を切った。自分から視線を外しうつむいた表情が、アシュレイの中で幼いころの泣き顔と重なる。
できすぎるくらいできた弟子だったせいなのか。当時のテオバルドは、とかく泣かない子どもだった。だから、アシュレイの認識するテオバルドの泣き顔は、感情を堪えるようにぐっとうつむいたものなのだ。ちょうど、こんなふうに。
「十五で俺を手放すつもりだったなど、一度も言わなかったではありませんか」
アシュレイは静かに息を呑んだ。
「手紙ひとつで師弟の縁を切られたように感じた俺の絶望を、あなたは知らないでしょう」
「テオバルド」
「あなたが言ったとおり、たしかに学院での生活は充実していました。でも」
顔を上げないまま、振り絞るようにテオバルドは続ける。
「三年間、俺はずっとあなたが恋しかったし、会うことのできる日を心待ちにしていました。あなたに話したいことがいっぱいあって、なにを言おう、どう伝えようと、そんなことばかりを」
考えていました、と細い声でテオバルドが呟く。言うべき言葉を選ぶことができず流れた沈黙に、テオバルドは小さく笑った。
「馬鹿みたいでしょう。自分でもそう思います」
おまえのことを、俺が捨てるわけがないだろう。あの当時のおまえは、まだ子どもだったのだ。師匠を恋しく思うことは、なにもおかしなことではない。
言い諭すべき言葉はいくつも浮かんだというのに、なにも音になることはなかった。そっと息を吐き、そんなことはない、とだけアシュレイは言った。
そんなことはない。それを馬鹿と言うのであれば、自分も同じだ。
森の家にひとりでいた三年も、そのあとのエンバレーでの四年も。俺の頭には、ずっとおまえが居座っていた。おまえが正しく誰かを選んでも、イーサンのときのように祝福できないのではないかと危ぶむほどに。だから、ちょうどよく王命に乗ったのだ。
すべて、言うつもりのなかったことである。師匠が弟子に抱く感情として、まったく正しくないもの。抱えたまま、死んでいくつもりだったもの。
だが、本当に正しかったのだろうか。今まで一度も抱いたことのなかった疑問が、ふっと頭に浮かんだ。
なぜ、そんなことを思ったのだろう。永遠と揺蕩う思考に、弱気を覚えたとでもいうのだろうか。わからなかった。
――きみのかわいい弟子のことも見くびっていると、そう思うよ。
よく考えるべきだと諭した、師匠の声。弟子だからと見くびっていたつもりはない。ただ、大切だったのだ。手の届かぬところから自分を照らす、優しく輝く星のような存在だったから。
遠くから眺めるだけで、十分だと思っていた。手に入れていいものではないのだから、と、そう。自分を律し続けていた。
けれど、本当は、ずっとそばにいてほしかったのかもしれない。誰でもない、ただテオバルドに。そんなことを、思った。
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