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第7話

    「はい?」と振り向くと、 「見えないですねえ」  それはテーブル席に居た二人連れの片方だった。栄一や鈴木よりも二つ三つ年下に見える少年だ。  週に二度も三度も来店する鈴木ほどではないにしろ、この少年の顔も栄一がアルバイトを始めてからの一ヶ月弱程度でもう既に何回かは目にしており、れっきとした常連客の一人だと言って間違いはなさそうなお客様だった。  無邪気と言うのか、今日は妙に人懐っこそうな表情を見せている少年だったが栄一の記憶が確かならば、何度も「いらっしゃいませ」から始まって「ありがとうございました」までの声掛けや注文時の遣り取りはあっても今の今迄、この少年から業務外の事柄に関して声を掛けられたりした事は無かったはずだ。  初めての事だった。 「店長さん?」  少年は心配がるみたいに栄一の目を覗き込んでいた。 「え。あ、はい。すみません」と栄一は気を取り直す。 「ええと。店長でしたら。ちょっと気弱な雰囲気はあるかもしれませんが天然という感じではないと思いますよ」 「え?」  栄一は答えたが少年は何故かきょとんとしていた。 「お前の事だよ! 話の流れで分かれよ! そういうところだよ!」  少年と向かい合っていた栄一の無防備な背中に、鈴木が大袈裟なボリュームと歌うみたいな調子でもってツッコミらしいツッコミを撃ち込んでくれた。 「あ?」と振り返った栄一は「ああ。そうか」とその言葉の意味に気が付くと、 「店長って俺の事を言ってたんですね。すみません。俺は店長じゃないんです」  改めて少年に答え直した。  栄一のその言葉自体は「ド天然だったりするんですか?」という少年からの質問の答えにはなっていなかったが、一連の言動の全てが分かり易い返答となってしまっていた。 「ごめんなさい。そうだったんですね。前に店長さんて呼ばれてた気がして。その、気弱っぽい? あのオーナーさんが新しく雇った新店長さんなのかと」  少年はたははと決まり悪げに照れ笑いを浮かべた。 「あ、いえ」と栄一が何かフォローをしなければと思った矢先に、 「ああ。悪い。俺がふざけて何度か呼んでたかも。その時、同じ店内に居たのかな。こいつに怒られたんで止めたけど。ゴメンな。とばっちりで誤解させちゃって」  鈴木がさらっと口を挟んだ。 「いえいえいえ。あ、こちらこそ何か盗み聞きしちゃってたみたいで。すみません」 「わはははは。言われてみれば確かに推理モノのラストで自供しちゃった真犯人みたいだったな、今の『店長さん』発言は。最後の最後で探偵の罠に引っ掛かってな。それは犯人しか知り得ない情報だ! みたいな」 「たはは。それもですけど。今も、その、店長さんじゃないお兄さんが天然だなんだなんて話に勝手に入っていっちゃって」 「ああ、いや。こちらこそ大きな声でスマン。お騒がせしてしまって。他のお客様に御迷惑をお掛けしてしまった」  今日も今日とて、このようにしてまた友達の輪を広げようとしている鈴木の姿に、栄一は「敵わないな」と妙な敗北感を覚えてしまうのだった。 「ごちそうさまでしたっと」  醤油ラーメンに味玉を鈴木が綺麗に食べ終えた頃、夜の繁忙期を前に栄一やパートのオバちゃんらは夕方からの勤務となっている別の従業員方と交代となる。 「お疲れ様でした。お先に失礼します」 「はい。今日もお疲れさま。気を付けて帰りなさいよ」  鈴木もそれが分かっていてこの時間帯に来店している節もあり、 「お疲れ。藏重。帰ろうぜ」  何の用事も約束もあるではないのにちょくちょくとバイト上がりの栄一と並んで帰途についていた。  とは言え、鈴木もラーメンと同伴だけを目的に、自宅からも大学からも離れているこの街に通っているわけではなかった。 「今日も行ってたのか」と栄一は呆れ気味に問い掛ける。 「まあな」と鈴木は恥ずかしげも無い様子で答えた。  鈴木が頻繁にこの街を訪れている理由とは例の喫茶店「chiffon」にあった。 「聞けよ。藏重。今日はあの子がコーヒーを持ってきてくれたんだぜ」  あの日、栄一と二人で「chiffon」に入った鈴木は店内の何かないしは誰かの虜となってしまっていた。  栄一に言わせてもらえば普段から何処かしらおかしなところのある鈴木ではあったがそれとはまた別の意味合いであの日、退店の前後辺りから鈴木の心は明らかにここにあらずとなっていた事をよく覚えている。付き合いの馬鹿みたいに良いはずな鈴木がラーメン屋に入ろうと言った栄一をひとり残して「何か胸が一杯で。俺はいいわ」などと先に帰ってしまうだなんて事は、鈴木という人間を知る者ならば誰も予想だに出来ないような珍事だった。簡単に言えば、らしくなかった。  後になって聞かされた事によれば、あの日の鈴木は会計をしてくれた女性店員が気になって、気になって仕方がなかったのだという。  女装した男性が多く働いているという同店に於いて、栄一も「逆に彼女は女性なのだろう」と感じるくらい飾り気の無い店員だった。印象も非常に薄かった。  そんな彼女を鈴木は気になったのだと言う。 「違う。一目惚れなんかじゃねえんだよ。そんな安っぽい感情じゃなくて。そういう雑な衝動じゃなくて。最初はただもう一度くらい顔を見たいかなって思って、見たら今度は声が聞きたい気持ちになって。声を聞いたら話をしたくなって」  鈴木は、 「徐々になんだよ。自分で言うのも小っ恥ずかしいが純粋な、淡い気持ちが何層にも積み重なっていった結果、ぎゅっとそれが一つに凝縮されて今の恋になったんだ」  何故か言い訳をするみたいに叫んでいたが、 「一目惚れって安っぽいのか?」  残念ながら栄一の思考はそこで止まってしまっていた。

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