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第8話
鈴木はあの日以来、その純粋で淡いらしい想いが霧散する間も無く何層にも積み重なってしまうくらいの頻度で喫茶店に通っていたらしい。
ずっと一人でだ。栄一はあの日以降、一度も喫茶店には行っていなかった。
鈴木も鈴木で他の友達を連れて行ったりやらはしていないとの事だった。
栄一がアルバイトをしているラーメン屋に鈴木が来る日は、その前に必ず喫茶店に寄ってから来ているようだった。
当然、本命はあちらなのだろう。ラーメンも栄一もついでだ。その証拠でもないがこの街に来て喫茶店には入っておきながらもラーメン屋には顔を出していないという日も普通にあるようだった。
微笑ましく思うべきか、苦笑いしてやるべきなのか。
ただ、週に二度も三度も来店しているラーメン屋よりも更に多く喫茶店には行っているとなると少しばかり行き過ぎな感もあって栄一は色々と心配にもなってしまっていた。
「恋だか純粋な気持ちだか知らないがストーカーにはなっていないだろうな」
栄一が忠告を申し上げたのはつい先日の事だった。鈴木は、
「それは大丈夫。なはず。多分」
と曖昧に頷いた。ストーカー犯には自覚が無い者も少なくないというが、
「暴走してないか。犯罪は犯罪だから犯罪なんだぞ」
「犯罪が犯罪なのは言われんでも分かってるわ」
笑いながら栄一の肩を叩いた鈴木のその表情を見る限りは何となくだが大丈夫そうな気がしてしまった。根拠を明確には示しづらいが、それは栄一が知っている鈴木の顔だった。
「俺はただの客としてのつもりでシフォンに通ってるんだけど。ただの客に見られてない可能性は自分じゃあなんとも言えないのか。別に何かアクションを起こしてるわけでもないんだけどな。声を掛けたりもしてないし、じろじろと見てもいないはず」
最初の頃こそ心ここにあらずだったがそれを恋だと自覚したらしい時点から徐々に鈴木は普段の鈴木らしさを取り戻していったように思う。もう視野も狭くはなっていないのではないだろうか。
だからこそ栄一も鈴木に声を掛ける事が出来た。最近になってようやくその話題に触れられた。下手なタイミングで下手な忠告をしたところで、鈴木にそれを乗り越えるべき障害だなんて捉えられて、余計に燃え上がられてしまっては困ってしまう。
真面目な栄一は面白半分に煽りたいわけではなかった。
そして今日、
「ほらな。これで俺が普通の客扱いされてるのが証明されただろ」
鈴木は想う相手がコーヒーを席に運んできてくれた事を二重の意味で喜んでいた。
「要注意人物認定されて、避けられてるわけじゃないって事か」
「逆に言えば何の印象も無いただの客って事かもしれないけどな。わははのは」
鈴木は空笑いをしてみせた。
「マイナスの印象よりはゼロで良いんじゃないのか」
「そうなあ。ただ恋の定番は悪印象をひっくり返しての好印象だろ。ゼロから百よりもマイナス百をプラスの百にする方が簡単というか効果的なんじゃね? っていう」
「漫画とかドラマみたいに最後はハッピーエンドだって決まってるなら、それはそうかもしれないけどな」
軽く頷いてから栄一は反対の意見を唱える。
「クラスメートとか会社の同僚とか、仕事の相手で継続的な付き合いがあるとかで、今後しばらくはどうしても会って話をしなくちゃいけないような必然性がお互いにあるなら挽回の機会もあるのかもしれないが、ただの店員とただの客っていう繋がりの薄い他人同士の場合はちょっとでもマイナスに足を踏み入れた時点で大人しく引き下がれよって話だぞ。こっちはこのマイナスをプラスに変えてやろうって余計に頑張りたくなるのかもしれないけれども、向こう側の気持ちとしてはマイナスの相手に更ににじり寄って来られたら恐怖でしかないだろ」
栄一は、
「それこそがストーカーの第一歩なんじゃないのか」
はっきりと言っておいてやった。釘を刺したつもりだった。
「金言だなあ。有り難いお言葉だ。肝に銘じよう」
ふざけた台詞と口調だったが、そう言った鈴木の顔はにやついてなどいなかった。
鈴木なりの真摯で受け止めてくれたのだろうか。
「それじゃあ」と鈴木は表情を緩めた。
「明日でも明後日でも来週末でも良いから近い内にまた一緒にシフォンに行こうぜ」
「あ? 良いのか?」
栄一がほぼ反射的に発した応えは「何故?」ではなくて「良いのか?」だった。
深い考えに基づいてはいない、単に口から出てしまった言葉だったが意外と正鵠を射ていたのかもしれなかった。
街の喫茶店にただ客として訪れるだけの事なのだ、本来ならば誰の許可も要らないはずなのだが、
「邪魔をして良いものなのだろうか」
と改めて栄一は考えてしまった。
本人が曰く、興味はあっても敷居がすっげえ高くて栄一をだしに使う事でようやく店の前にまでは来られたという初日は別としても、それ以降はずっと一人で喫茶店に通い続けていた鈴木にとって「chiffon」は、栄一も他の友達も連れて行きたくはない彼だけのオアシスかユートピア的な場所ではないのか。考え過ぎか。
栄一としては特に用事も無く、行っても良いし行かなくても良いと思える店ならば行かないという選択をする。
独特な考え方かもしれないが、敢えて友人の縄張りを荒らしたいとは思わない。
軽く考え込んでしまっていた栄一の隣りから鈴木が言った。
「店での俺の態度に問題は無いかどうか、実際に見てみた藏重から客観的な御意見を賜りたく存じますよ」
「ああ」と栄一は顔を上げる。
「そうか。なるほど。そういう事か。それじゃあ遠慮も忖度も無しで良いんだな?」
「忌憚のない御意見をば。率直に」
鈴木は大仰な手の振りも加えながらに深く頭を下げてみせた。うやうやし過ぎて、馬鹿にしているみたいな態度だった。
栄一は笑ってしまった。鈴木も笑った。
「来週か、再来週かな。バイトの給料が入ると思うから。それからだな」
「お。何だよ、藏重。奢ってくれんのかい。メルシーボークー」
「誰が奢るか。記念すべき初任給をどうして鈴木のコーヒー代にしないといけない」
鈴木と栄一のじゃれ合いが始まる。これが二人の日常だ。
「つれないねえ。俺のお陰で決まったようなもんじゃねえか、今のラーメン屋のアルバイトはよお。だから紹介料的な?」
「嘘を吐け。鈴木は俺を女装させようとしてたんだろうが。お前からはラーメン屋のラの字も聞かされていない」
「それでもラーメン屋に行き着いたのは俺が藏重を女装させようとした結果だろう。最初のきっかけはやっぱり俺って事じゃね? じゃね? じゃね?」
「そういう言い方をするなら最初の最初は俺がアルバイトを始めようと思った事だ。そうなると勿論、俺自身の功績だな。俺の俺による俺の為の手柄だ」
「傲慢だねえ。不遜だねえ。図々しいねえ。周囲の人間を顧みない『俺が、俺が』は身を滅ぼすぜえ?」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。先に『俺のお陰』とか言い出したのは誰だ」
等々とひとしきり言い合った後には、
「それはさておき。実際、鈴木は喫茶店に通い詰めなんだろう。真面目な話、大丈夫なのか? 財布の方は」
「ああ。俺もバイトは続けてるし。一日一杯のコーヒー代くらいなら」
「何かの広告の文句みたいだけれども。あれって安く感じさせる心理的テクニックで実はそんなに安くはないみたいな話じゃなかったか」
「わはは。一日一杯とは言ったものの本当に毎日、通ってるわけじゃあないからな」
「まあ。そうか。あのな、余計なお世話だとは思うがのめり込み過ぎの無駄遣いには気を付けろよ」
「金言、メルシー。アニメだゲームだの課金とかアイドルだキャバ嬢だに貢ぐ感じにはならないように気を付けるさ。騙されてる自分に酔わないようにもさ」
少しはまともな会話なんかもしたりなんかして、
「おっと。もう着いちまったな。ほんじゃあ、此処で」
「ああ。またな」
この日は解散となった。
余談ではあるが少年を含む二人連れは勤務時間の過ぎた栄一が店の奥で帰り支度を整えている間に退店していた。
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