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第9話
梅雨明けが待ち遠しい七月の頭。ここのところは特に雨も降ったり止んだりで湿度と気温が共に高く、非常に蒸し暑い日々が続いていた。
毎年の事ながら、栄一がアルバイトをしているラーメン屋ではこの時期、少しだけ客足が遠のく。ほんの数名の正社員は別として、栄一らアルバイトとパートのシフトは緩めに調整をされて皆一様に平素よりも出勤日は少なくなっていた。
時給制の彼らは当然、働く日にちが少なくなればその月末に貰える給料も相応に少なくなってしまうのだが、それでも、
「開放感! 解放感? わかんないけど、かいほーかん!」
「ちょっと早めの夏休みだよねえ」
「軽く英気を養っているうちにまたすぐ忙しくなるけどな」
彼らの多くはその休日を喜んでいた。普段の忙しさが偲ばれる。
「俺の場合は始めてまだ二ヶ月目だからな。仕事の疲れに体が慣れてきたかと思ったところで休みが多くなるのか。有り難いような、有り難くないような時期だな」
例年を知らない新人アルバイトの栄一としては思わぬ余暇となったわけだが、
「お。じゃあ行けるな」
耳の早い鈴木がそんな隙を見逃すわけもなく、
「行ける? 何処にだ?」
「おいおい、ブラザー。忘れたとは言わせねえぜ。そうやってしらばっくれてる間に大切な友人がストーカー化しちまっても良いのかい。手遅れになるぜ?」
「少しでも自覚があるんなら自主的に止めておけ」
「わはは。あくまでも可能性の話さ。藏重君にはその見極めを頼みたい」
「マジか」
「マジだ」
栄一は、少し前に鈴木と交わした口約束をほぼ強制的に遂行させられる事となってしまった。土曜日の午後、鈴木と二人で喫茶店「chiffon」を訪れる。
栄一にとってはおよそ一ヶ月半ぶりの二回目となる来店だったが、鈴木はと言うとさて何日ぶりの何回目なのやら。下手をすれば十何時間ぶりの何十回目だという話になってしまいそうで本人には聞けなかった。
当たり前ながら相変わらずな外観に軽く物怖じをしながらも、最早、慣れた様子で軽々とドアを開ける鈴木の後ろにくっついて栄一は喫茶店内へと入った。
昨日も雨で明日も雨が降るらしい、じめじめとした季節だったが店内は温度も湿度もしっかりと管理されているようで肌に触れる空気が心地良かった。
クーラーががんがんに掛けられていて、来店後の数秒は確かに気持ちが良かったがすぐに寒く感じるようになってしまうといった事もなく、座った席によっては強めの冷風にびゅーびゅーとさらされて、風邪を引いてしまいそうだなどというような事もなかった。
「良い店ではあるんだろうけれどもな」と栄一は呟いた。
ゆっくりと出来るかどうかは、その客次第だ。
外観から内装から働いている店員達に至るまでの全てを含めた「chiffon」の醸し出している雰囲気に気圧されてしまうような客ではくつろぐ事など到底かなわない。
「俺は今、ブレンドと羊羹の組み合わせにハマっててさ」
テーブルに着くなり、鈴木が言った。
「今日もそれにするけど。藏重は決まってたりするのか? ああ、別に急かしてるわけじゃないからな。まだだったらゆっくり決めてくれ」
鈴木はとても落ち着いていた。
ずっとこの調子なら無自覚にストーカーだのといった心配は要らなそうだが、まだというか今のところは例の鈴木の想い人である店員「奈月」が鈴木の前に現れてはいない為、いざとなった場合に鈴木がどのような態度を表すのかは分からず、まだまだ結論を出すには至れていなかった。
「俺もブレンドコーヒーと、あとはどうするかな。前回のチョコレートケーキも美味しかったけれども夏場にチョコはあんまりか。いや。店内は涼しいから関係ないか。お。冷やしチョコレートって何だ。面白そうだな。これにしてみるかな」
栄一が答えると鈴木は「んじゃあ。オッケーな?」と軽く確認をしてくれてから、店員を呼んだ。
「おーい、店員さん」なんて無粋な大声は上げずに見るだけ、目と目を合わせるだけで鈴木はテーブルに店員を呼び寄せた。
公式ホームページに載せられていた文言で、何年の何月現在の話かは知らないが、喫茶店「chiffon」には三十人以上もの従業員が在籍しているらしい。店の規模から考えると多過ぎる人数だ。
来店が二回目となる栄一が見覚えのある顔は三つだけで、つい先程に「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた給仕は流石に見知らぬ女性だったが、
「お待たせしましたあ。ご注文はお決まりですかあ?」
とテーブルに現れたのは「Mito」だった。
彼女は前回、栄一が来店した際にも注文を取ってくれた給仕で、また注文したコーヒー等を運んできてくれた給仕も彼女であった。
「あ」と栄一は漏らしてしまった。
居心地が悪いというほどではないにしろ多少の緊張は強いられているというような現状で、一方的にでも知っている顔を目にしてしまった栄一は思わず、ほっとしてしまった。
頬の筋肉が緩む。緩んでしまった事に気が付いて、無理矢理に引き締めようとするものだから酷い表情となる。恥ずかしい。そして彼女には申し訳なかった。これではまるで栄一の方こそがミトに対するストーカーのようではないか。
我ながらキモい反応をしてしまった。
店には多くの給仕が居るというのに、一ヶ月半も経ってからまた同じ女性に注文を取ってもらうという偶然にちょっとした縁は感じてしまうが、栄一のこの「ほっとした」気持ちが鈴木の場合のように「恋」へと変わるかと言われれば、答えはNOだ。
ほんの一瞬、ほっとはしたがそれだけだった。
彼女にしてみれば一ヶ月半も前に一度だけ来店した客の顔など覚えてはいないだろうが、ほんの一瞬でも栄一がほっとさせてもらえた事は事実だ。一時でもなごませてもらえた事に感謝しなければいけない。
「ブレンドと羊羹を」
慣れきった様子で鈴木はスマートに注文を告げた。すると、
「あれえ」
と今度はミトが呟いた。
先程の栄一ではないが彼女も、この喫茶店に通い詰めているという鈴木の顔に見覚えがあって、つい反応を示してしまったのだろうと微笑ましく思っていたところ、
「店長さんだあ。今日はラーメン屋さんはお休みなんですかあ?」
ミトは鈴木の顔ではなく、何と栄一の顔を見詰めながらにそんな言葉を口にした。
栄一は「え?」とさえも言えずに固まってしまった。驚きよりも困惑が強かった。意味が分からない。栄一はただ黙ってミトの目を見詰め返してしまっていた。
そのまま実に数秒もの長い間、ミトと栄一は互いに無言でじっと見詰め合い続けていた。
思いも寄らない出来事に遭遇し、思考の停止してしまった栄一はともかく、自分から声を掛けた相手が返事もせずにただただ見詰め返してきているだけという状況で、声を掛け直すでもなく、少しも目を泳がせたりや逸らす事もしないまま栄一の顔を見据え続ける、いわば見詰め返し返し続けているミトの胆力たるや恐るべしだった。
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