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第10話

     ミトは大きかった目をにっこりと細め続けていた。 「えっと。ラーメン屋って龍玉の事ですかね」  はっと我に返った栄一は何故かおずおずと応えてしまった。 「確かに俺は龍玉で働いていますが、ただのアルバイトで店長じゃないんですよ。ちなみに仰っていた通り、今日はそのアルバイトもお休みです」 「あ、はあい。それは知っていましたあ。だけど店長さんぽいなあって思って勝手に『店長さん』ていうニックネームで呼んじゃっていましたあ。ごめんなさい」  またも意想外な彼女の言葉に栄一の頭はフリーズを通り越してショートしてしまいそうだった。  彼女は栄一がアルバイトをしているラーメン屋「龍玉」に客として来た事があるのだろうか、あるのだろう。でも栄一は知らない。栄一に見覚えは無かったが、全ての客の顔を見てまた覚えているわけでもないから当然と言えば当然の事かもしれない。しかし、そういった諸々を察する事も何も今の栄一には出来ていなかった。考えがまとまらない以前に考えるという事が出来ないでいた。 「ええと。あの。取り敢えずブレンドコーヒーと冷やしチョコレートを」  まるでミトから目を背けるみたく手元のメニューに視線を移した栄一はぼそぼそと注文を告げた。およそ栄一らしからぬ行動だった。  鈴木は黙ったまま栄一の横顔を眺めていた。 「はあい。ブレンドコーヒーと羊羹をおひとつと、ブレンドコーヒーと冷やしチョコレートをおひとつですねえ。かしこまりましたあ」  オーダーを承ったミトは何事も無かったかのような態度で「それでは失礼いたしまあす」と下がっていった。  すっかりとミトが去り終えた直後、 「藏重え」  栄一の視界の隅っこに鬼か悪魔の姿が見えた気がした。 「な。に。か。な」  栄一は錆び付いた古いロボットみたいな動きでぎぎぎぎと首を回してそちらに顔を向ける。 「凄えな。藏重。俺なんか何度も来てるのに話し掛けられた事なんかねえぜ。くそ、俺もラーメン屋でバイトしておくべきだったなあ。いや。今からでも遅くはないか」  鬼か悪魔かと思われたそれは、ちゃんと視界の真ん中に置いて見てみれば、単なる鈴木であった。栄一はふうと息を吐く。  肝は冷やしたが結果、鈴木にはただただ羨ましがられただけだったのか。  もっと深く妬まれるか殺意でも向けられているかと思ったが、気のせいだったか。 「一度だけなのか何度もなのかは知らないが、さっきの話し振りだと彼女は龍玉に来てはくれているんだろうな。俺の記憶には無いんだが。本当に」 「ふうん」と鈴木はあっさり頷いた。それ以上の追求はなかった。  何だ。栄一の言葉は言い訳じみて聞こえなくもなかったと思うが鈴木にしては随分と呆気ない反応だった。ツッコミどころを完全に見逃していた。  そうか。単純に相手がミトだったからだろうか。これが鈴木の想い人であったならまた反応は違っていたのだろう。  良かった。栄一は一人勝手に命拾いをしたような気分になっていた。  それはそれとしてだ。本当にミトは龍玉に来ていたのだろうか。  栄一の事を知っているのだから当然、来ていたとすれば、栄一が店に出ている時に来ているのだろう。 「いらっしゃいませえ!」と出迎える栄一が来店されたお客様の顔を見ない事は無いはずなのだが、抽象的に捉えているとでも言えば良いのか例えば自分で飼っているならばまだしも野良や他人のペットの犬を「犬」、猫を「猫」としか見ないように、お客様を「お客様」としか見ていない栄一は、まじまじと来た客の顔を覗き込んだりはしていなかった。勿論、失礼に当たらないようにとの考えも手伝っている。  悪く言えば適当に見流してしまっていた為に栄一の記憶には残っていないのか。  顔を覚えようとじろじろと見過ぎれば失礼となる、だが向こうは覚えてくれているのに店員の方が客の顔を覚えていないというのもそれはそれで失礼となるのか。これからはしっかりと顔を確認して覚えるようにした方が良いのだろうか、それとも。  悩ましい問題だった。  などと栄一が考えを巡らせているうちに、 「お待たせ致しました」  コーヒーとチョコレートは無事に届けられてしまった。お早いお着きだった。  栄一の脳内会議による結論は未だ出ていなかったが、 「有り難う。頂きます」  ホットコーヒーがアイスコーヒーになってしまうくらいまで考え続けてもきっと結論には至らないだろうからと栄一は折角の熱いコーヒーが台無しになってしまう前に口を付ける。  まずは一服だ。 「うん」  喫茶店「chiffon」のブレンドコーヒーはやはり美味しかった。  今回も美味しく感じられた。 「お。それが冷やしチョコレートってやつか」  鈴木が「早く食ってみろ」と言わんばかりの視線を送ってきていた。  白くて四角い皿の上に一口大の茶色いチョコレートが数個、無造作風に重ね置かれていた。栄一はその内の一つをつまみ上げると、 「見た目は普通のチョコだな。何か違うのか。夏場で溶けないように冷蔵庫に入れていただけの普通のチョコレートだなんてオチじゃないよな」  様々な角度からチョコレートを見てみた後、敢えてがじりと一口大の半分をかじり食べた。 「ん。中に何か入ってるな」  舌で感じながら栄一は指先に残したもう半分のチョコレートを目でも確認する。  茶色いチョコレートの真ん中には白い何かが入れられていた。  ホワイトチョコレートではない。滑らかな食感と広がる風味からバニラのクリームかと思われる。 「どうだ?」と鈴木に感想を求められた栄一は、 「まずは冷たい口当たりが気持ち良い。一口大とは言ってもキューブ状で噛み砕くには大きいかとも思われたが中心にクリームが入れられている為、チョコレートの部分はそれほど分厚くはなく、パキッと心地良く食べられる。チョコレート自体はビター寄りだが二、三度、噛むと中に入っていた風味の強めなクリームと渋さのあるチョコレートが口の中で混ざり合ってほどよい甘さが広がるな」  頑張ってしまった。 「食レポか」と鈴木のツッコミが入る。 「端的に言うと美味いな」 「はじめからそう言えって」  栄一と鈴木の二人は小さく笑い合った。ここが「chiffon」でなければ大きく笑い合っていただろう。  美味いコーヒーと美味いチョコレートが栄一の妙に疲れた頭を優しく解きほぐしてくれていた。その二つともがただ美味しいのではなくて、この喫茶店らしい雰囲気もきちんと醸し出しており、栄一の頭をほぐし過ぎて羽目を外させるほどではないのがまた良かった。  また今回、コーヒーを運んできてくれた給仕はミトでも奈月でもなかった。  前回とは違って奈月の姿は会計時にも見られず、栄一達がテーブルから離れてレジカウンターに行くまでの店内で不意にすれ違うというような奇跡も起こらず、奈月がこの日、店内に居たのかさえも栄一には分からなかった。 「無駄に長居も出来ないが。困ったな」  本日、栄一がこの喫茶店に来た理由というか大義名分は一方的な想い人を前にした鈴木が過剰な反応や動きを見せて相手の迷惑になっていないかどうかを見定める事にあった。  けれども肝心の奈月が見当たらず、鈴木は自身の想い人を前にする事自体が叶わなかった。栄一が見定める以前の問題だ。  結局、大義は成し遂げられず、鈴木の「恋」を止めるべきなのか、放っておいても大丈夫そうなのかを見極めるという宿題がまるまる残されてしまった感じだった。 「もしかして。また来なければいけないのか?」と口には出さずに栄一は思った。  そうなってしまいそうで言葉にはしたくなかった。  この喫茶店に来て、前回は鈴木が恋に落ちた。今回はミトに声を掛けられた。  栄一の素性というほど大袈裟なものでもないが、栄一のアルバイト先が他人に知られていた。その事を唐突に知らされた。  偶然が重なっただけではあろうがそれでも現状、二分の二の確率で栄一にとっては想定外の事が起こっている店だった。  出されるコーヒーは美味しいが心を休めに来る場所としては間違っていた。  あくまでも栄一にとってはだが、そういった場所ではなくなりつつあった。少なくとも義務で行く羽目となって嬉しく思える場所ではなかった。  ストーカーだの客観的な御意見だの見極めるだのといった言質もあって、向こうの方から一緒に来てくれと言われたら断れないような状態であったが、せめて、こちらからは何も言わないでおこうと心にこっそり決めた栄一だった。

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