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第11話
あれから一週間ほどが過ぎたが今のところまだ鈴木から「また行こう」といった話は出ていなかった。
鈴木自身はその後も一人で店に通い続けてはいるらしく、これもノロケと言えるのだろうか店内で対応してくれた奈月の立ち居振る舞いの素晴らしさや美しさを栄一は散々と聞かされたりはしていた。
栄一としてはこのまま有耶無耶になってくれる事もやぶさかでなかったが、それで鈴木がストーカーと化してしまった日には夢見が悪いというか寝覚めが悪いというか少なくもなく小さくもない後悔や罪悪感を抱えてしまいそうだった。
「まあ大丈夫そうだけれどもなあ」
誰に同意を求めるわけにもいかず、栄一は独り言ちた。
しかし結果として杞憂になろうともそれを胸に抱いている間は確かに存在している重荷なのだ。
喫茶店にまで付き添って鈴木の言動を見定めるなど、面倒臭い事だとは思う反面、さっさと見極めてしまってこの妙な責務から解放されたいところでもあった。
「さてとどうしたものなのか」
考えあぐねていた栄一に訪れた転機は、栄一と鈴木の二人が喫茶店「chiffon」を訪れてからちょうど十日後に現れた。
七月もそろそろ半ばとなって、気象庁による宣言はまだだが梅雨はもう明けているのではないだろうかという晴天が近頃は続いていた。その日の午後、
「いらっしゃ。あ。どうも。ええと。らっしゃいませえ!」
栄一がアルバイトをしているラーメン屋「龍玉」に見覚えのある客がやってきた。鈴木ではない。栄一は軽く動揺をしてしまった。
「こんにちわあ」
と可愛らしい笑みを浮かべながらに現れた彼女は喫茶店「chiffon」で給仕をしていたミトだった。ただその名前は制服に付けられていたネームプレートに書かれていたものであって本名かどうかは分からない。仮に「ミト」が本名であったとしても名字は知らない。もし「ミト」が名字であったなら下の名前は知らない。その程度の顔見知りだ。しかし、
「あ。店長さん。じゃなかった。えっと。くらしげ君」
ミトは何故か栄一に親しげな顔を向けて、ふふっと微笑むとあまつさえ小さく手を振ったりとしていた。それはあたかも恋人を相手にしたときのような仕草だった。
困ってしまう。嫌だと言ったら贅沢な気もするが恥ずかしいし不気味でもあった。
そもそも栄一はミトに名乗ってはいなかったはずだが、鈴木との会話を聞いていて栄一の名字を知ったのだろうか。耳聡い子だ。そしてその事を隠そうともしないのは無邪気が故か、それとも分かっていながらやっている大胆なのか。
「いらっしゃいませえ」と栄一は少しだけ小さくなってしまった声でもって、ミトのすぐ後ろに居たお客様にも改めてお声掛けをさせて頂いた。
若い男性のお客様だった。ミトの友人か、それこそ恋人かもしれない。
こちらの方はこちらの方でたまに龍玉で見掛ける顔だったが勿論、いち店員といちお客様以上の関係は無く、一度として言葉を交わした事も無かったはずだ。
栄一に責任は無いと思うのだがミトから親しげに微笑まれていた栄一の事を、その若い男性客は睨むような目で見ていた。
つい最近、似たような視線を感じた覚えがあるのだが気のせいだろうか。
ミトと男性をテーブル席に案内した際、
「そうだ。くらしげ君」
とミトにまた話し掛けられてしまったが栄一は、
「申し訳ない。仕事中なので。また後で」
それをやんわりと拒絶した。栄一なりに柔らかい声色と笑顔は意識していたから、刺々しさは無かったと思うがどうだろう。多少は傷付けてしまっただろうか。
先日の喫茶店での一幕から察するに、自分の仕事中でも客を相手に個人的な言葉を掛けてしまえる彼女には通じない理由かもしれないが「仕事中なので」という釈明は栄一にとっては免罪符に近い言い訳であった。
本音を言えばミトと絡んで見知らぬ他人に睨まれる事も遠慮したいし、他人を睨みたくなるくらいに不快な思いを彼女の連れにさせてしまう事も遠慮したかった。
ミトは、
「うん。わかったあ。お仕事、頑張ってね。くらしげ君」
拍子抜けしてしまうくらいにすんなりと頷いてくれた。一瞬も傷付いたような顔は見せなかった。
それから先は何も特筆すべきような事は起こらず、ミトとその連れは注文した担々麺とつけ麺を食べ終えると普通に店から出ていった。
「ありがとうございましたあ!」と見送った栄一に、ミトは大きく微笑みながらも口では何も言わずにまた胸元で小さく手を振ってくれただけだった。
「おいっす」
と鈴木が店に現れたのはその数十分後だった。客の少なくなってきていた店内で鈴木は今日も栄一に話し掛けたりとしていたが、それらは全て適当にかわされていた。
無下に突き放されていた。鈴木は笑っていた。
極力ながら仕事中に私語は厳禁という栄一のスタンスは相手が誰であろうとも変わらない。店に客が多かろうが少なかろうが変わらなかった。
その後、栄一の勤務時間が終わるのを待ってくれていた鈴木と二人で店を出る。
夕飯どきを目の前にして忙しくなり始めていた店内に、
「お疲れ様でしたあ。お先に失礼しまあす」
挨拶を残して栄一は帰るつもりだった。返事は期待も想定もしていなかった。
だから、
「おつかれさまでしたあ」
と不意打ちのように届けられたその言葉に栄一は色々な意味で驚いてしまった。
「え? ミトさん?」
店を出た栄一と鈴木の目の前にすすっと彼女とその連れの若い男性が現れたのだ。
聞き間違えでも見間違えでもなかった。確かにミトだった。
栄一は反射的にその声の主の名前を呼んでしまってから一秒後、自分も彼女に自己紹介はしてもらっておらず、咄嗟に彼女の名前を口に出来てしまえている事が不自然であると気が付いて、ぞくりと大きく震えてしまった。
「あ。いや。その」と栄一は慌てたが一度、口から出してしまった言葉は引っ込められない。後はもう、どうか彼女が誤解をしてくれませんようにと願うほかなかった。
「はあい。ミトさんです」
ミトは「あはっ」と花を咲かせたみたいに微笑んだ。
その斜め後ろから若い男性が挑むみたいな鋭い視線を栄一に向け続けていた。
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