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華麗なるデートの香り 1

「カレーの匂い……?」  次の日、学校から帰ってくると家の中にカレーの香りが漂っていた。他の家の夕飯かと思っていたけれど、まさかここが発生源だったとは。  しかも、スパイスの利いた本格的なカレーの匂いだ。お店みたい。 「お、種っちおかえりー」 「た、ただいま。あの、これは」 「あー、これ?」  キッチンを覗くより先に奥から出てきた紫苑さんに声をかけられた。ラフだけどだらしなくない格好からして早めの出勤らしい。  呼び方がまた変わっていることには面倒だから触れないでおく。 「いつものスランプカレー」 「スランプカレー?」  基本的にみんな料理はしないから料理の匂いがしていること自体が珍しい。  その上で珍しいことに、キッチンに立っているのはまさかの空木さんだった。  確か料理は苦手だと言っていたはずだけど、どう見てもカレーを作っている。それに「スランプカレー」とはなんぞや。 「あの人、仕事が行き詰った時にあれやるんだよ。なんか集中できるとか言ってカレー作んの。作りすぎてカレーだけ一丁前なのウケる」 「そんなに作ってるんですか?」 「やばい時ほどスパイスぶっこむからわかりやすくて面倒くせぇの。放っときな。いつものことだから」  どうやらこのシェアハウス内では馴染んでいることらしく、紫苑さんはまったく気に留めていない。それどころか放っとけと重ねて言われた。 「んじゃ俺同伴行ってきまー」 「あ、行ってらっしゃい」  そしてひらひらと手を振って出ていく紫苑さん。この人はこの人でいつも忙しそうだ。  ここの住人はみんなマイペースで、本来はそれでいいんだろうけどさすがにこのカレーの匂いはスルーできない。 「あの、空木さん」 「おかえり種ちゃん」 「ただいま、です」  昨日の機嫌の良さはどこに。  キッチンを覗けば振り返らないまま挨拶を返されて、その声が平坦なのがやたら恐い。  一般的な料理風景のはずだけど、背中から漂う黒いオーラがなんともいえない不気味さを漂わせている。  味見してはなにかの瓶を振って煮るのを繰り返している辺り、まるで魔女が大釜に向かって怪しい薬を作っているかのよう。手元にずらりと並べられたスパイスの瓶が、一般的な調味料の容器ではなく武骨な瓶なのもその要因の1つかもしれない。  ただ名前を貼っただけの色とりどりの瓶が、コレクションのように揃っているのはある意味壮観な図だ。アジョワンとかフェヌグリークなんて、一体どういうものなのか想像もつかない。そもそもルーを使う以外のカレーの作り方なんて知らない。  しかし、これだったのか、妙に多いスパイスの理由は。 「ちょーっとだけ行き詰っちゃってるだけだから気にしないでね」  スパイスだけでなく隠し味だと思われるものもたくさん周りに置かれている。その手慣れた様子からこれが年季の入った行動なのだとわかる。  スパイスの量でやばさがわかると言っていた紫苑さんの言葉が真実ならば、かなり切羽詰まっているのではないだろうか。 「……僕でできることがあればなにかお手伝いしますけど」  いつもこれで解決しているのなら、紫苑さんの言った通り放っておいてもいいはず。でも昨日のこともあるし、なんだかんだでお世話になっている部分も多いから、なにかできるのならしたい。もちろん空木さんの本業で手を貸せることなんてないだろうけど、要望があれば手伝うくらいはできるんじゃないだろうか。  そんな気持ちで声をかけると、カレーをかき混ぜる手が止まった。  そして振り返り、重そうに落ちているメガネを緩慢な動作で上げ、空木さんは僕を見る。普段は穏やかなお兄さんだけど、こういう時は6つ年上の空木さん、といった感じだ。目が据わっているのが恐い。 「じゃあ、デートしてきて」  一言。はっきりした言葉を告げられたのはずなのに、予想外すぎてなにかを聞き逃した気がした。

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