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変化する日常 8
「……夢?」
ベッドで目覚めて一番に呟いた。強烈なのにおぼろげな記憶はあまりに突飛すぎて現実かどうかわからない。
夢だとしたら、なんかとんでもない夢を見た。夢じゃないならとんでもないことになった。
起き上がって周りを見回しても、あのとても現実とは思えない淫猥な空気は部屋のどこにもなくて、アズサさんの姿もない。なんの証拠もなくて、あれが本当にあったことかが確かめられない。
部屋の中は薄暗く、時計を見れば夕方くらい。普通に昼寝して起きた、にしては少し体がだるい。けれどその記憶のせいかもしれない。
どうしよう。アズサさんに聞く? でも、なんて?
「聞けるわけないよな……」
どう答えられても困る未来しかない。むしろ最近のアズサさんとの間には、こちらが聞かれて困ることしかない。
とりあえず頭をすっきりさせるためにシャワーを浴びようと部屋を出る。なんとなく体も洗っておきたい。
リビングの方から人の気配はしないけど、とりあえず見つかりたくなくて静かにドアを開けたタイミングで、目の前のドアもちょうど開いた。
「あ、種っち! ごめーん!」
顔を合わせた瞬間紫苑さんに謝られて、とてつもなく嫌な予感を覚える。一瞬このまま部屋に引っ込もうかと思ったけど、それじゃあ話が進まない。
「……チョコのことですか」
「そうそれ」
あの時は混乱していたからよく考えていなかったけれど、今となっちゃ僕の体がおかしくなった理由はアレぐらいしかない。というか普段と違う要素があれしかなくて、紫苑さんの反応からしてどうやら正解らしい。
コーヒーと一緒に食べた高級そうな、だけど見たことのないメーカーのチョコレート。
「あれ店出禁になってる子が持ってきたものらしくてさ、それ知らなかった新人の黒服が受け取っちゃったらしんだよ。まあいわゆる催淫剤入りのチョコらしくて、そういうお店で買ったんだって。食べた俺がムラムラきて、その俺に襲われれば既成事実ができて付き合えるからって考えたらしくって……ほんっとごめん」
「…………大変なんですね、ホストって」
本当は怒るべきところなんだろう。ひどい目に遭ったんだから。
だけどあまりに僕の日常とはかけ離れた話過ぎて、思わず同情してしまった。動機も手口も恐すぎる。もはや新手の怪談だ。
「体に悪いもんではないからそこだけは安心して。本来はカップル用のお遊びアイテムらしくってさ、あの中の1個だけ当たりだったんだけど……当たっちゃったんだって?」
世の中にはとんでもないお遊びをするカップルがいるようで、あんなものでロシアンルーレットをするらしい。食べたのは3つほどだったけど、その中に「当たり」が入っていたみたいだ。
「悪かったね、本当。ちょっと興奮するだけで効果はすぐ抜けるらしいんだけど、種っちにはちょっと刺激的過ぎたかもね」
苦い顔で話を聞く僕に、本当に謝る気があるのか紫苑さんはウィンクしてみせる。
冗談じゃない。あれがちょっと? とんでもなく恥ずかしい思いをしたのに?
「今度当たっちゃったら俺に言ってね」
「それよりもう二度とそんな怪しいもの持ってこないでください」
「わかってる。十分怒られた。……俺としては、感謝されてもいいくらいだと思うけど。いや、種っちには本当に悪いと思ってる。なんでも買うから言って」
ごめんね、ともう一度謝って、紫苑さんは部屋へと引っ込んだ。時間と格好からしてもうすぐ出勤するんだと思われる。たぶんあまり反省はしていない。
ただ、今の僕にはそれよりも大事なことがある。
紫苑さんは僕の状態を誰に聞いたんだ。そして誰に怒られた?
「……アズサさんだよな」
寝ていた僕以外に知っていたのはアズサさんしかいない。
たぶん僕をベッドに寝かした後、様子が変だったことに気づいてくれたのか、置きっぱなしだったチョコから推察してくれたのかもしれない。そしてきっと紫苑さんを問い詰めたんだろう。
……怒ったのか、アズサさん。あまり感情の波が見えないあの人が、人を怒ったりすることがあるのか。僕のことで?
というか、そうなるとやっぱりあの囁きは現実だったってこと?
……好きって、アズサさんが僕を?
そのアズサさんに僕はなにを言った? なにをさせた?
「ダメ。ちょっと今は無理」
少しでも思い出すと途端に羞恥で顔が真っ赤になって、その場にうずくまりたくなる。
とりあえずシャワーを浴びてさっぱりして、それから考えよう。そうしよう。
なんて、1人で百面相をしながら色んな問答をシミュレーションしたのに。
それからアズサさんはめっきりシェアハウスを訪れなくなってしまった。あれだけほぼ毎日やってきていたのに、とんと音沙汰がない。
……気まずいんだろうか。その気持ちはわかる。僕もどういう顔をして会ったらいいかいまだにわからないから。
それでもいつでもクッションに寝そべっていた長身がないと、リビングが妙に広く感じて戸惑ってしまう。
だって僕にとってはアズサさんがそこにいるのが当たり前の光景だったから。
その当たり前の存在がいないせいで、気づけばいつもアズサさんのことを考えるようになってしまった。
大体アズサさんもアズサさんだ。
あんなことをして、好きだなんて言っておいて、いきなり来なくなるなんて気になるに決まってるじゃないか。
部屋でのことを思い出しては赤面して、夕飯が1人分残ってるのを見て心配になって、そんな自分に迷って。
思えばここにやってきた時からずっとずっとあの人に心を乱されている。一向になにを考えているのか、なにをしたいのかわからず、「好き」なんて言葉もどういう意味で言ったのかわからない。
わからないからこそ、僕には「好き」は「好き」という意味でしか伝わらないのに。その真意を確かめようにも本人が来ない。
そんな風にしてもやもやする日常が、アズサさんのいないままに流れていった。
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