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マッチと導火線 3
「タクシー呼んでもらったから」
どうやら説明も済ませてくれたらしいアズサさんが、お店の人にタクシーも頼んでいたらしい。なんて気の利く人なんだ。
少ししてやってきたタクシーに女性を乗せ、何度もお礼を言われてから見送って、こちらもお店にお礼を言って出てきた。
「なんとかなって良かったな」
「本当に。でも抑制剤のことすぐ思いつかなくて……アズサさんがいなかったら動けなかったです」
「まあ、俺にも関係あることだったし」
ほっと一息ついて、改めてすぐに動けなかった自分を反省する。オメガである僕こそまず思いつかなきゃいけないことだったのに、アズサさんに言われなきゃ出てこなかったなんて情けない。
そして言われて気づく。そういえばアルファの方には抑制剤がないのか。あくまでフェロモンを抑えるのが目的の薬だからオメガ用のものはあるけれど、そのフェロモンに誘発されるアルファには対応策がない。だからこそ普段から緊急用の抑制剤のことが頭にあったんだろう。身近な問題だからこそ、ベータとして生きてきた僕よりもよっぽど詳しい。
「ただのんびりしてる時間はなくなったな」
「あ、そろそろ藤さんが来る頃ですね」
今からゆっくりご飯を食べる時間はない。
千波さんの仕事が早かったから少し時間が取れただけで、そもそもはその仕事終わりに藤さんが迎えに来る予定だったんだ。有能マネージャーさんはアズサさんの仕事中に別の仕事をしている。
「……しょうがない」
とりあえず再びセンパの事務所近くに戻ろうと歩き出すと、アズサさんが深々とため息を吐いた。
「これ、あげる」
そしてなにやら僕に袋を渡してくる。てっきりセンパの紙袋かと思ったけれど違った。
「これって、今のお店の?」
「部屋貸してもらったお礼を兼ねて買った。着て」
どうやら外で待っている間に買ったようだ。説明してタクシー呼んでもらって買い物までって、どれだけ時間を有効に使ってるんだ。僕はハラハラと心配を抱えていただけだったのに、役立たずに拍車がかかってしまう。
「……もしかして上から下まで?」
中を覗き込めば、どうも中身は1つではない様子。というかたぶん上下揃っている。
確かに今のお店はアパレルショップだったから服は売っているだろうけど、一式買っている辺りさっきしていた会話を思い出した。
「常に俺のこと感じてて」
「……ありがとうございます」
どこか満足げな表情のアズサさんに、とりあえずお礼を言って受け取る。すべてにおいて行動が早い。
元々アズサさんの部屋であるあそこにはアズサさんの荷物が残っていて、服もベッドもあるから常に感じているようなものなのに。
「巴は俺と会えなくて寂しくない?」
「寂しいに決まってるじゃないですか。でも、これがあるとあんまり心配することなくて」
首筋に手を当て、指先で歯の跡を辿る。うなじについたこの番の印のおかげで、最近気持ちが安定している。たぶんこれもあるから、アズサさんが心配するみたいに不安になることがあまりないんだと思う。
同じようにアズサさんが僕の首に手を回してゆっくりなぞるから、くすぐったくて笑った。
「……外じゃなければ色々してるのに」
「目立つ自覚があってくれて良かったです」
特に今は運転の時と同じ薄いサングラスだけで爽やかヘアの金髪もキラキラしていて目立つにも程がある。
自重してくれて良かったですと微笑めば、今度は不満げな眉間のしわ。だけどそれを言葉にするより前にアズサさんのスマホが鳴った。
「……いる。行くって。うん、今」
どうやら藤さんが着いたらしい。たぶんすぐに次の仕事だろう。遅刻は良くない。
「ごめん、ここで」
「はい、行ってらっしゃい。お昼ちゃんと食べてくださいね」
「巴も気をつけて」
アズサさんが持っていてくれた紙袋も受け取って、手を振って見送ろうとして、ふと思いついた。その紙袋の中身。
「あ、アズサさん。これ」
手を伸ばしてアズサさんの頭の上に乗せたのは猫耳帽子。やだな、これも似合うのか。
「僕のですけど、貸しておいてあげます。今度返してくださいね」
やっぱりそのままだと目立つし、寂しがりのアズサさんに次に会う約束を送る。僕も今度会った時にこのキャップを返そう。
「ねえ、巴が可愛いからこのまんま連れて帰りたい」
「この後仕事でしょう。僕も学校行くので」
本当にしそうな真顔で言うものだから、笑って背中を押す。そう、こちらも授業があるんだ。
「それじゃ、本当に気をつけて。これも、近いうちに返すから待ってて」
さすがに大学を休ませる気はなかったのか、アズサさんは改めて僕に別れの言葉を告げて駆け足で藤さんの車へと向かった。
まさかその「近いうち」が来ることがないとは思わずに。
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