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第5話 思わぬ展開
有希也は自分が降りる階のボタンを押せなかった事で、その男がどの階で降りるか確かめられると思った。
早めに昼食を済ませたことで、午後の始業開始までには時間がある。
男が降りたら、そのまま28階に行こうと決めた。
男が降りたのは20階だった。
有希也はひょっとして男はこのビルにある会社に勤めてしているのかもと、ときめいた。
もしそうなら、降りたそのフロアーの何処の会社に勤めているのか、何関係の会社なのか、色々と想像した。
そして、最上階の28階で有希也は降りた。
とりあえず、いつもの習慣で空いていた窓際のソファに腰を下ろした。
窓に向いて座ったが、外の景色は目に入らなかった。
まさか真後ろに立っていたなんて、とエレベーターの鏡に映った男の顔を思い出していた。
その時。
「隣、座っていいかな」
聞き覚えのない声に、有希也は振り返った。そして言葉を失った。
「えっ…。」
今、有希也の頭の中にいる男が目の前に立っている。
瞬間、思考が停止した。
男は有希也の返事を待つ事なく、少し離れて隣に座った。
男はにこやかな表情で、胸の内ポケットから黒皮の名刺入れを出して、その中の一枚を有希也に差し出した。
『株式会社 ファリナ
巽 洵一 』
有希也は名刺を見て、ビル1階の総合案内板にその社名を見たような気がした。
名刺を手にとって裏を返すと、アルファベット表記になっていた。
「あの、何か…」
有希也は精一杯に言葉を返した。
「ごめん。突然で」
その男は低めの心地のよい声をしていた。
「このビルの20階にある、ファリナっていう会社に勤めているんだけど、タツミジュンイチっていいます」
有希也は、今目の前で話しかけている巽は、喫煙室で最初に見た時とずいぶん印象が違うと思った。
「本当にごめん。急に声かけて、めちゃくちゃ怪しいよね、俺」
「そうです…ね」
「何かを売りつけるとか、投資話しの持ち掛けとかじゃないから安心して。実は簡単なモニターになってもらえないかなというお願いなんだけど」
(モニターも十分怪しいのに)
有希也にとってその男、巽とこんなきっかけで近づいたのは、まったくの想定外だった。
「モニター…ですか?」
有希也は、少し訝しげながら尋ねた。
「そう。男性用の香水のね」
香水。
少し身構えていた有希也は、意外なワードに拍子抜けした。
「俺、香水なんてつけたことないし…」
「そう。つけてないからお願いしたいんだよ」
何故、有希也が香水を付けていない事を巽はわかっていたのか、その時は気付けなかった。
巽は続けた。
「このビルの近くに最近リニューアルした商業ビルがあるだろ? そこに男性用のコスメやヘアケア品、生活雑貨や本のショップができるんだけど、その店にうちの会社の香水も置いてもらう事になって、で、店側としては、高校生から30歳くらいの客をターゲット層にするらしくて。君のような年代だと、そもそも香水に興味があるのか、どんな香りだったら付けてみたいか、よくある市場調査と思ってもらえれば」
巽は一気に説明をして、有希也の反応を見ていた。
「その、巽さんの会社は香水を販売する会社なんですか?」
「ごめん、話が前後したけど、うちの会社は海外からの輸入や、自社ブランドの販売、香水だけじゃなくコスメも扱ってて、最近は特に男性向けの商品に注力してるんだ。で、お願いしたいのはうちの香水をつけてもらって、君自身の感想と周りの人、職場の人からの感想も聞かせてもらえないかと思って」
「つけた感想を伝えるだけでいいですか?」
「もちろん。もし、つける前にその香りが気に入らなければすぐに止めてもらっていいから」
有希也はもう少しその男、巽を知りたいと思い、モニターになる事を了解した。
喫煙室でタバコを吸っていた、有希也には到底真似できないあの大人の男の色気は、今は感じられない。
(今はビジネスモードなんだろうな)
「ありがとう。助かるよ。えっと名前を教えてもらってもいいかな」
「あっ…有希也。橋本有希也といいます」
有希也は巽には下の名前で呼んでもらいたいと思い、ユキヤを先に告げて印象付けようとした。
「じゃあ、有希也君、よろしくお願いします」
巽は笑顔でそう言った後、少しバツが悪そうに、実はと付け加えた。
「15時くらいに窓際のソファで有希也君が休憩しているのを前から見かけていたんだ。さっきも偶然だけどエレベーターで一緒になってさ、その時に有希也君が香水を付けていないことを確かめられて。で、有希也君はどの階で降りたのか分からなかったんだけど、一か八かでここに来たら、有希也君がいて、それで直ぐに声をかけたんだ」
有希也は、自分は見ていただけではなく、見られていたんだとわかると、急に気恥ずかしくなった。
「それで、慌ててたから、その、つけてもらいたい香水を持ってこれなくて。このあと15時くらいに、またここで会えるかな」
巽の言葉に、なんだかデートにでも誘われてるような、変な錯覚をしそうだった。
有希也は恥ずかしさがばれないように
ほんの少し勿体をつけて言った。
「たぶん、いいですよ」
その言葉を聞くと、巽は笑顔でありがとうと言って、オフィスに戻って行った。
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