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第6話 香水
有希也は時計を気にしていた。
巽と約束した15時まであと20分。
マーフィーの法則よろしく、大抵こういう時に限って、行く手を阻む何かがあるものだと。
案の定、困った顔をした後輩の宇野が書類を持って有希也に近づいて来た。
「橋本さん、来週のマキセのオープニングに派遣予定の人なんですが、さっき体調不良で無理って連絡があったんです。どうしましょう。もう来週なのに」
有希也が勤めている会社は、人材派遣を請け負っている。有希也は、登録している人材や顧客データの管理業務を任されていた。
期間的の繁忙、閑散はあるが、宇野が困っているような事は日常によくある事だった。
来週オープン予定の店、自然食品を主に提供するカフェに派遣予定の女性が体調不良で勤務が難しくなったらしい。本当に体調不良なのかも怪しいものだと有希也は思った。
「早急に、カフェ側の採用の要項を確認して次の人を探すと同時に、主任に報告して、マキセさんにも連絡して」
(…ったく、それくらい、考えてくれよ)
有希也は小さいため息を吐いた。
この後輩はどうも、自分で考えることなく、すぐに誰かを頼る傾向にあると思いながらも、手を貸していた。
「橋本君はほんと優しいわ」
隣のデスクの同期女子の田口が、聞こえるかギリギリの声で言った。
仕方ないだろとばかりに有希也は肩をすくめた。今は後輩救済の件を田口と話す余裕はなかった。
腕時計を見ると、もう15時を過ぎていた。
「休憩してくる」
と言い残し、エレベーター前に急いだ。
予測通り、やっぱりエレベーターもなかなか来ない。
エレベーターがようやく最上階に着いたのは、15時を20分も過ぎた頃だった。
有希也はラウンジに急ぐと、3時間程前に一緒に座ったソファに巽は待っていてくれた。
「ごめんなさい。すっごい遅れてしまって」
巽は慌ててやって来た有希也の姿を見て、安堵の表情を浮べた。
「こちらこそ、ごめん。忙しかったんだろ」
有希也に隣へ座るよう促し、落ち着くのを待ってから、改めて笑顔で言った。
「来てくれてありがとう。本当言うと来てくれるかちょっと不安になってたんだよね」
「ちょっと頼りない後輩がいて、その子のヘルプをしてて」
「あぁ、そんな時にごめんね。じゃあ手短に」
と言って、巽はジャケットのポケットから手のひらに収まるようなガラスの小瓶と、細長い白い紙の束を出した。
小瓶の蓋を開けて、一滴にも満たない量を束から剥がした一枚に垂らした。その紙の端をつまんで数回振った。
「香りが落ち着くまで、ちょっと待ってね」
有希也は、タバコ同様、巽の指先の動きに魅入っていた。
巽はじっと手先を見ている有希也に
「あっ、これ? 試香紙っていってね、香りを試す時に使うんだよ。本当ならその人の肌に直接つけるのが一番いいんだけどね。試香紙を振ってエタノールを飛ばして少し待つと、その香水本来の香りがするんだ」
巽は試香紙を自分の鼻先に近づけると納得した様子で、有希也に渡した。
有希也はそっとその香りを吸い込んで、そして目を閉じた。
「いい香り…」
巽の顔がほころんだ。
「よかった。有希也君に似合う香りだと思ってたんだ」
有希也はこの芳香の感想を巽にどう伝えようか、なけなしの美容ワードを探した。
「なんていうか、森の中でレモンを食べながら石鹸で手を洗っているような…リラックスできる香りです」
巽は笑いを堪えながら
「ありがとう、斬新な好感想だ。うちの調香師が聞いたら喜ぶよ」
有希也は言葉のチョイスを間違えたかなと思いつつも、この香りが自分に合っていると言われたことが嬉しかった。
その後、香水をつける箇所や、量や、香りの持続時間など簡単に説明を受けた。
「できれば、朝の洗顔後につけてほしいかな。会社に着いた時一番華やかな香りになっていると思うんだ。」
それから、と言って、
「俺のお勧めの箇所はこの辺りかな」
と左胸を指差した。
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