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第9話 不確実な約束
先週末に巽と約束した火曜日の今日、有希也は朝から落ち着かなかった。
巽と会う回数を重ねるほど、気持ちが昂っていく。
仕事をミスしないよう、いつも以上に気を遣った。
「フレグランス橋本君、この資料の確認お願い」
こういう時の田口の茶化しは、有希也の気を楽にさせてくれる。
有希也の香水に気付いてからは、ちょくちょくからかってくる。
「了解。午前中まででいい?」
「今日中でいいよ。あぁ、やっぱり15時の休憩までにお願いね」
有希也は、わかったと言って、頭の中でタスクを整理した。
午後一番で田口の資料を確認し、メモを添付して渡すと14時を過ぎていた。
有希也は朝からの昂りが頂点に近づいてくると、自分を客観視して段々と可笑しくなってきた。
(ただ香水の感想を伝えるだけなのに…)
田口に休憩してくると伝えたのは15時を少し過ぎた頃だった。
有希也がラウンジに行くと、既に巽は喫煙室ではなく、ソファに座っていた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「謝ることないよ。忙しいのにありがとう」
穏やかで優しい表情。
巽はピンストライプの黒のスーツにブルーグレイのネクタイを締めていた。
有希也は自分には巽の様にスマートにスーツを着こなすことはできないなと思いながら巽を見ていた。
「そうそう。この間の有希也君の香水の感想を社内で言ったら、皆んな絶賛していたよ。森の中でレモン食べて石鹸で手を洗うって、本当に凄い感性だって。ただ香りの種類のカタカナを並べるより、断然香りのイメージが湧くって。ディレクターが反省していたよ」
「俺はそんな感想しか言えないから、恥ずかしいですよ。初めて会社に香水をつけていった時も、同期や後輩の女性達は、聞いたこともない単語を言ってましたよ。履き物の名前みたいなのとか」
巽は笑い出した。
「有希也君と話していると面白いよ。たぶんサンダルウッドだよ。白檀って聞いた事あるかな。高級な扇子にも使われている香木なんだけど」
有希也は首を傾げた。
「やっぱり、女性はよく知っているね。因みに有希也君の香水にはサンダルウッドは入ってないんだけどね。」
「ウチの会社は女性社員の方が多いんですけど、特に隣の席の同期は、毎日いい香りで癒されるって言ってくれています」
さすがに、誰から貰ったかの妄想のくだりは省略した。
「やっぱり有希也君につけてもらってよかったよ」
有希也は思い出した。
巽が有希也の首すじに顔を近づけて囁いたやっぱりの言葉。
「あの、先週エレベーターの中で、俺の首すじを見てやっぱりって言ったのは、どうしてかなって思ってたんですけど」
「見てたんじゃないよ。香りの確認」
巽はまた笑い出した。
「同じ香水でも、付ける人によって香りが変わるんだよ。その人自身の匂いと香水が混ざってね。あの時は朝につけた香水の最後の香りと、有希也君の匂いが混ざった香りを確かめたくてね。思ってた通りいい香りだったから、やっぱりって出たんだよ」
「俺の匂いですか…」
「まぁ、加齢臭には程遠い年齢でしょ。で、有希也君は何歳?」
「27歳です」
「もう少し、年下にも見えるね」
「そうなんです。服装によっては、今だに大学生に間違えられますよ」
「俺の歳は気にならない?」
「間違いなく、俺より年上ですよね。じゃあ当てましょうか?35…歳?」
有希也はもう少し歳上かなと思いながらも、若いめに言った。
すると、巽は明らかにがっかりした様子だった。
「35歳って、四捨五入したら40歳だよ。」
「すいません。でも巽さんって落ち着いた大人の雰囲気があって。俺は憧れます」
「ありがとう。昔から実年齢より必ず上の歳を言われるんだけど、33歳に見えない?」
「聞くと、33歳に見えます」
巽は苦笑しながら立ち上がり
「もう少し話していたいけど、そろそろあっちへ行くわ」
と言って喫煙室を指差した。
「あっ、それと、有希也君の社内は女性が多いんだよね?出来れば同年代の男性、友達とかどんな関係でもいいんだけど、その人達の感想も聞けたら嬉しいかな」
じゃあ、また、と言って喫煙室へ歩いていく巽は、やっぱり格好よかった。
(同年代の男性の意見ね…)
有希也は大学時代の仲間と久しぶりに会ってみようかと考えた。
何れにせよ、また巽と話す口実を持てたのは何より嬉しかった。
そして有希也はもう少し巽の姿を見ていたいと思った。無造作にネクタイを緩めて、眉間に軽く皺を寄せてタバコ吸う仕草を。
有希也はここに居続けられる理由を探した。
ズボンのポケットからスマホを取り出して、かかってもいないのに、耳に当てて誰かと通話している振りをした。たまに軽く頷きながら巽の方を見ていた。
喫煙室の巽は、さっき有希也に年齢を二歳上に言われて落ち込んでいたと思えない別人になっていた。
有希也が見惚れた巽になっていた。
巽と実際に話してみると、喫煙室のガラスの壁の中と外ではギャップが大きく、有希也を戸惑わせたが、優しい表情で穏やかに話す巽にも惹かれ始めていた。
有希也はスマホをポケットに入れると、ゆっくり立ち上がり、あらためて巽の方を見た。
巽はタバコを持った手で、じゃあ、とでもいうように軽く動かして有希也に合図をした。
じゃあまた、というだけの不確実な口約束。
有希也は、また会いたいと思った。
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