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第17話 ジュリアン

 19時。  約束の時間から少し遅れて巽が来た。 「ごめん。俺から言い出したのに」 「忙しそうですね」 「ちょっと、色々あってね」  巽はビルを出て、駅の方に向かった。  有希也は黙って巽の後を歩いた。 「駅の向こう側だけど、ラーメンの屋台が出てるの知ってる?」  唐突に巽が言った。 「屋台ですか。初めて聞きました」  有希也は巽が屋台のラーメンを食べているのが以外だった。 「そこのラーメン美味しいんだけど、その親父が気まぐれでさ、毎日やっているとは限らないんだよね」  その屋台の場所に着くまで、天気やたわいもない話しをした。  駅の高架下に着くと、巽は溜め息をついた。 「ごめん。今日はハズレだった。やってないわ。有希也君にラーメン食べさせたかったんだけどな」  巽はすまなそうな顔で言った。そして何かを思い出した様に 「じゃあ。ちょっと変わってるけど、面白い店があるんだ。そっちでもいい?」 「いいですよ」  有希也は明るく言ったが、巽は昼間のあの言葉の意味を伝えようとして会ってるはずなのに 真意がわからなかった。  しばらく歩いて着いたのは、駅前の大通りから外れた雑居ビルだった。  階段を上がると、細い廊下の両側に派手な色の看板が並んでいる。 「ここなんだけど」  と言って巽は『ジュリアン』と金属の切り文字が掛かっている木製の扉を開けた。  扉の奥から、野太い奇声が聴こえた。  「あらぁ。洵チャン。ちょっと久し振りじゃないの」  短髪で派手な化粧、大きなイヤリングにピチピチのキャミソールドレス、おそらく男と思われるその姿に有希也は圧倒された。 「お仕事忙しかったの?もう、ホント久し振りなんだから」  有希也は巽が言う面白いお店ってオカマバーなのかと、店内を見回した。  内装は紫に統一され、カウンターとソファ席を合わせても10人も入れば満員のこじんまりした店だった。 「あら?今日は可愛い子連れてるじゃない」 「あぁ、可愛いだろ?」  巽はいたって平然としていた。  そして、有希也の耳元で、大丈夫だよと囁いた。  比較的早い時間帯であったが、ソファ席には先客がいて、カウンター席に座った。 「ママ、紹介するよ。ユキヤ君って言うんだ」 「あら、名前まで可愛い。どんな字を書くの?」  有希也は名前の漢字を説明した。 「いい名前ね。ユキちゃん。アタシはユミっていうの。やだぁ、一文字違いじゃない。で、アンタ達はどういう関係なの?」  ユミママは興味津々で聞いてきた。 「有希也君の会社と俺の会社が同じビルで、たまに会うようになってね」 「あら。つまんない言い方。もうキスくらいしてる仲なんでしょ、ホントは」 「ママ」  今から下心諸々の説明をする前なのにと、巽はユミママを軽く睨んでたしなめた。 「やだぁ。ユキちゃんったら、明太子みたいに真っ赤よ。可愛い」  有希也は巽に助けを求めた。 「ママ、もう勘弁してよ。今日は二人で話しをしたいんだよ」 「勘弁してほしかったら、もう少し頻繁に来てちょうだい。はい、お邪魔様」  ユミママはソファ席の客の所へ行った。  巽は真っ赤な顔の有希也を見て、微笑みながら、ママは福岡出身である事を伝えた。  そして、ねぇ、ニコさん、とカウンターの50歳は過ぎてるであろうバーテンダーに声をかけた。 「今日は高架下の屋台やってなくてね。二人とも腹ペコで、なんか作ってよ」 「そうですね。じゃあ、焼きうどんはどうですか」  ユミママとは全く対照的なそのバーテンダーは穏やかに言った。 「有希也君もいいよね」  香水の話しをする時とまた違った一面を見せている巽は、楽しそうだった。  バーテンダーのニコは、巽さんはいつものですねと言って、ハイボールを出した。  そして有希也には 「お連れ様には、ママからのウェルカムドリンクです。どうぞ」  と出されたのは、苺ミルクのような物だった。 「ユキちゃんは酔っ払っちゃうと洵ちゃんに襲われるから、今日はソレにしときなさぁい」     離れた席からユミママが叫んだ。    巽は呆れた。   「味は苺ミルクですが、お酒ですよ」  笑いながらニコは続けた。 「ママは初めて来店された方には、その人のイメージのお酒をお出しするんですよ。お近づきの印ですかね」   「じゃあ、有希也君。乾杯」 「いただきます」  有希也は苺の香りの酒を飲んだ。 「美味しい。思ったより甘くないです」 「ありがとうございます。焼うどん、もう少し待ってくださいね」  ニコはカウンター下の冷蔵庫を開けながら言った。 「巽さんは、よく来るんですか?このお店に」 「最近はちょっと来れなくて、ご無沙汰だったんだけど。それにしても今日のママはテンション上がり過ぎだな。もっと普通に話せる人なんだよ」  ジュリアンには、もうかれこれ10年近く通っている、と巽が言った。  巽はハイボールを飲みながら本題に入ろうとした。 「今日のあの目つきの悪い男、宮之原って、皆んなは宮さんって呼んでるんだけど、腕利きの調香師でね。こっちが香りのイメージを伝えると、そのイメージ以上の香りを作ってくれてね。嗅覚や香りのセンスは人一倍優れているのに、あの性格でコミュ力なしだから、昔は大手の化粧品メーカーにいたんだけど問題起こして、でウチの会社に引っ張ったんだよ」 「なんか信じられないですね。あの人が香水を作るなんて」 「そうだろ?最初は社の皆んなも文句を言ってたけど、作った香りで、黙らせたんだよね」  ニコが頃あいを見計らって焼うどんを出した。 「ありがとう。いただきます」  醤油味の焼うどんは二人の腹を満たしていった。 「で、その下心なんだけどね」  有希也は巽がどう話そうか迷っているんだと感じた。 「ほら、有希也君の友達も言ってたように、有希也君に付けてもらった香水は、女子ウケはするし、有希也君の雰囲気には合っているんだけど、一般的な男には少し甘過ぎたみたいでね。 宮さんには最初、中性的でほんの少しクセのある香りでってオーダーしたら、有希也君の香水ができたんだよ」 「宮さんって、すごい人なんですね」 「そうなんだけど。まぁ俺がね、その香りがあまりにも有希也君に合ってるから、なんか他の人にその香りをつけて欲しくないな、なんて思って。男性には甘すぎるっていう評価をいい事に、生産販売の計画を途中で中止にしたんだよ。俺の一存で」 「それが、下心なんですか」 「宮さんはそう思ってる。あの時、有希也君とすれ違った一瞬で香りを判別するんだからね、彼は」  そして少し照れた様子で 「有希也君の香水は間違いなく女子には売れると思う。でも街のあちこちで有希也君の香りが広まったら、俺の記憶が混乱する」  有希也は海で話していた事を思い出した。 (俺だけの香りにしたいってこと?…どういう) 「次、何飲む?」  有希也の空のグラスを見て、巽は聞いた。 「あぁ。お水もらってもいいですか」 「酔った?」 「そうじゃないです」  ニコは黙って有希也に冷たいレモン水を出した。 「ありがとうございます」  有希也は、今日はあまりにもたくさんの事で気持ちを揺さぶられ、これ以上飲むと自分の頭では整理しきれないと思った。 「じゃあ、そろそろ行こうか」  巽はニコにカードを渡して会計を頼み、財布を出そうとした有希也を手で制した。 「ママ、また来るよ」  もう帰るの?と言いながらユミママが送りにきた。 「ユキちゃんもありがとね。また絶対に来てねぇ。待ってるからね。絶対よ」  ウインクと盛大な投げキッスをされた。

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