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第20話 涙
週明け。
有希也は出勤前から休憩時間の事を考えていた。会社がもう少し下層にあれば、気軽にコンビニでも行く事ができたのにと、今更ながらである。
もうすぐ夏季ボーナスが支給される時期ということもあり、企業の退職者も増え始め、有希也も忙しくなっていた。
15時の休憩時間前、隣の田口が声を掛けてきた。
「橋本君さ、なんか最近元気ないんじゃない?」
有希也のパソコンを打つ手が止まった。
「そうかな。ちょっと寝不足でね」
女子の観察は鋭いが、実際、寝不足はあながち嘘ではなかった。
「ならいいんだけど。橋本君まで辞めるなんて言い出さないでよ」
「誰か辞めるの?」
「あれ?知らないんだ。そうか橋本君は最後の砦ってわけか。アイツも案外狡猾だわ」
「だから、アイツって誰?」
「宇野よ。うわっ。噂の本人がこっち来た」
宇野はわざと有希也の休憩時間を狙って来たようだった。
「橋本さん。俺、もうここ辞めようと思うんです」
いつもの情けない声だ。
「そう」
宇野は有希也のあまりの塩対応に次の言葉がすぐには出なかった。
「そうって。橋本さん…。他になんか言うことっていうか」
「俺には宇野を引き止める理由はないけど」
隣で田口の小さな笑い声が聞こえた。
「引き止められたかったら、引き止められる人間になれよ。宇野はクビになったわけでもないし、辞める辞めないは宇野の自由だろ。」
宇野は引き止めてもらえると思っていたのに当てが外れ、それどころかいつもとは考えられない有希也の厳しい言葉に表情を失った。
「そう…ですね」
宇野は自分の席に戻って行った。
「橋本君、男前」
田口は冷やかした。
「休憩行ってくる」
有希也は今日から休憩をどうしようかと考えていたが、この場にいるのも面倒くさくなり、結局いつもの行動になった。
少し気が重い28階。
有希也は喫煙室が見えないソファに座った。
宇野に強く言い過ぎただろうかと思い返していた。
以前ならあんな冷たい言い方はしなかっただろう。宇野の引き止めてほしい甘えたズルい気持ちをわかってても、前なら頑張れよと励ましていたが、今はそんな気分ではなかった。
この場所にくると、また思いが込み上げてくる。
喫煙室の所作の美しい男。
見ているだけでよかったのに、もっと知りたいと思ってしまったばっかりに、有希也は気持ちの切り替え時を間違えてしまった。
窓の外は曇り天気だった。
有希也はちょうどいいと思った。
宇野はこの先どうするか、次に有希也のところに来たらもう少し話しを聞いてやろうかと思った。
「だからね、巽さん」
エレベーターホールから誰かの声が聴こえた。
有希也は一瞬動けなかった。
そして、ゆっくり声のする方に顔を向けると肩越しに巽ともう一人、日焼けをしていかにも陽気そうな感じの、有希也とさほど歳も変わらなさそうな男が楽しそうに話しているのが見えた。
日焼けした男は手首の内側を、巽の鼻先に近づけ、巽は頷きながら何か言っている。
(新しい香水のモニターか…)
有希也は鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。
窓の外の景色が徐々にぼやけ始める。
有希也はその場を立ち去りたかったが、今動けば溢れそうな涙は確実にこぼれ落ちるとわかっていた。
瞬きもせず窓の一点だけを見つめていた。
(頼むから、早く乾いてくれ)
有希也は必死で涙を堪えるあまり、巽が近づいて来た事に気付けなかった。
「有希也…君?」
巽の声だった。
振り向いた時には、すでに涙が頬をつたっていた。
有希也はソファから立ち上がると、エレベーターへ駆け出した。
(見られたくない…泣いてるなんて)
「待って」
巽は加減のない力で、後から有希也の腕を掴んだ。
その力のせいで有希也は後によろめき、そのまま巽に支えられた。
「ねぇ、どうしたんだよ。」
巽の声にはいつもの優しさはなかった。
「すいません。モニター期間はもう終わりましたから、離して下さい」
「断る。何で泣いてるのか、何でそんなそっけない態度になるのか、説明してくれないと離さないよ。」
巽は力任せに掴んでいた有希也の腕を離し、肩を抱いた。
「それに、そんな顔じゃ、オフィスに戻れないだろ?」
巽はそう言って、ポケットの中のハンカチを渡した。
「ごめんなさい…。」
有希也はこの混乱した感情を巽に説明するのは、今の休憩時間中にできることではないと思った。
有希也の言葉を待っている巽に、仕事終わりでもいいですか、というのが精一杯だった。
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