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第30話 キスマーク

 有希也は家に帰ってきても、巽の愛撫の感触がリアルに残っていた。  有希也が想像していた交わりとは違っていた。  それで巽は満足したわけではないとわかっているが、男に裸にされて身体にキスをされる経験の最初としては、あれで止めてもらえたのは、正直ホッとしていた。  巽の優しさなのか、または別の意味があるのか、この次があるとすれば…。    有希也は風呂に入った。  ホテルでは気付けなかったが、左胸に花びらのような赤い痣がついているのを見つけた。  巽が付けたキスマークだ。  有希也はキスが好きな巽のことだから、身体の他も探した。特に首すじは、痛くなるほど首を捻って探したがそれらしいマークは見当たらなかった。  明日会えたら、いつも通りに話せるか少し自信がなかった。  朝のルーティン。  香水をつけようとした箇所にキスマークがあった。偶然か故意か。  有希也は今朝は右胸に一滴付けた。    会社に着くと、有希也のデスクの上に饅頭が一つ置いてあった。  誰からの物か、田口に聞くと 「あぁ、それ?さっき宇野君が置いてったわよ」 「辞める挨拶的な物?」 「違う違う。旅行のお土産だって。リフレッシュしたから、また宜しくお願いしますだって。 アイツは狼少年になるわ。またそのうち辞めますっていうわよ、絶対。まぁお饅頭は美味しかったわよ」  有希也は笑いながら 「もう、食べたの?」 「悪い?今日は朝抜きだったのよ。で、このデータだけど」  と、いつもの朝と変わらないこの些細なやりとりは、有希也を安心させた。  15時の休憩。  有希也はドキドキしてソファに座っていた。  巽に会ったら、昨夜の事を思い出してしまいそうになる。 「お疲れ、有希也」  突然、巽がやって来た。 「あっ…お疲れ様」  巽は有希也の顔をじっと見た。 「なに?」 「いや、可愛いなと思って」 「巽さんて、ホントそういうの平気で言えるよね」 「有希也も言ってみたら?」  ここからは少し小声で 「巽さんはキスが上手いですね、とかさ」  いつもの冗談を言われると、さっきまでのドキドキはすっかりどこかにいってしまった。  そこには二人の日常があり、ひょっとしたら 昨夜のような事も当たり前になっていくのかもしれないと有希也は思った。 「そうだ。ここに付けたでしょ」  有希也は少し恥ずかしそうに、自分の左胸を指差した。 「気付いた?」  巽はニヤニヤ顔で言った。 「もう、他にもないか探したよ。首とか」 「そんな野暮なことはしないよ。俺達の秘密の事なんだから、誰にもバレないようにするさ。でも、服で隠れている箇所ならいいよね? これからも」  巽は最後の『これからも』を言うのに少し勇気が必要だった。 「昨日…ありがとう。その…あそこで止めてくれてくれて」  巽の表情が一変した。  無理に進めなくてよかったと思った。  あの時、拒みはしなかったが有希也にとってはあの行為を受けるだけで精一杯だったのだから。 「有希也こそ平気で言えるよな、俺の気持ちを掻き立てるような事。また、頭の中で抱きしめてるよ」  巽は周りから見えない様に有希也の手を握った。 「あっ。明日から3日ほど出張だから俺」 「そうなんだ」 「それでさ、最初の一日目は宮さんも同行だって。拷問かよ」  地方の町おこしの一環として開催される香りのイベントに、そのプロデュースを依頼されたらしい。宮之原もその地域特有の匂いを確認すると言って同行することになったと話した。  有希也は話しを聞いて、同情する反面、巽と宮之原のやりとりを想像すると笑いが込み上げてきた。 「なに笑ってんだよ。気の毒と思わない?」 「思うけど。でも頑張って。帰ってきたらご飯行こ」 「人参ぶら下げるの上手いね。あっ俺がいない間、浮気すんなよ」 「巽さんこそね」 「宮さんと、か?地球が滅亡しても絶対にない」  巽は顔をしかめながら立ち上がり、有希也の髪をクシャッとして喫煙室へ行った。

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