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第41話 有希也の妄想
翌朝。
巽はスマホの着信音で目が覚めた。
巽は無視をしようかと思ったが、画面の名前を見て、出ざるを得なくなりスマホを掴んで、ベッドから離れた。
神崎からだった。
休みの日に神崎から連絡がある事は滅多になかった。
巽はイベントで何かトラブルでもあったかと
げんなりしながら、もしもし、と言った。
(巽、休みのとこごめん。宮さんがごねてどうしようもないのよ。助けてお願い)
「何があったんだよ。昨日は何も問題なかったけど」
香りのイベントの最終日の今日、宮之原は珍しくそのイベントが気に入った様子で、昨日に続き今日も会場に出向く事になった。
巽は宮之原の指示通りに必要な道具等一式を会場に運んだが、神崎はそれを持っていくのを忘れてしまったらしい。
怒った宮之原は取りに帰れと詰め寄っていると言う。忘れる神崎も悪いが、神崎がその場を離れることはできないと分かった上で無理を言う宮之原も大人気ない。
それが宮之原なのではあるが、巽にその忘れ物を会場に届けてほしいということだった。
電話口の向こうで困り果てている神崎の顔が容易く想像できた。
巽は仕方なく了承した。
本当なら、自分の腕枕で眠っている有希也の寝起きの顔を見られたはずなのに、まだ眠い目でおはようと言ってほしかったのに、そして、昨夜の事を思い出して、恥ずかしそうにする仕草を見たかったのに、と巽は神崎を恨んだ。
眉間に皺をよせた顔で巽が戻ってきた。
「どうしたの?大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ。けど今からすぐオフィスに行かないといけなくなったんだよ。悪いけど一人残して行くよ。」
有希也の髪を撫でながら、名残惜しそうに言った。
巽は身支度をしながら部屋の中の物は適当に使っていい事や玄関の鍵はオートロックである事を伝えた。
そしてキッチンから陶器のカップを置く音が聞こえたかと思うと、寝室に戻ってきて有希也に軽くキスをした。悲しげな顔でじゃあと言って、出掛けていった。
有希也はもうしばらくベッドの中で微睡んでいたいと思った。
巽の枕に顔を埋めると、少し甘くて渋い香りが有希也の鼻腔をくすめた。
(いい匂い)
有希也は目を閉じた。
巽に初めて裸にされた時の事を思い出していた。
ディープキスと上半身だけの愛撫。
今ならその時の巽の気持ちがわかる気がした。
初めてする男とのセックスに不安や恐さも正直あった。巽はそれを感じとって、有希也の体温や匂い、肌感を確かめるだけにしたのだろう。
その時はまだ不安定な二人の関係。
巽なりの優しさを今更ながら感じていた。
有希也は起き上がり、ベッド横で脱いだ下着や衣服を拾い上げてバスルームへ向かった。
洗面台の横にタオルと歯ブラシとシェーバーが置いてあった。
巽もそうだが、有希也もそんなに髭が濃いわけでもない。鏡を見ながら触った顎にはシェーバーは必要なさそうだった。
バスルームの折戸を押し開けると正面にほぼ全身が映る鏡がある。色白で細身。鏡に映っている自分のペニスを見た。
決死の覚悟で巽に迫ったが、結局最後はマウントを取られた。臍から下が溶けていくような泣き出したいくらいの感覚は初めてだったと思い出した。
(巽さんは意地悪だ。あんな事するなんて)
気持ちよさのあまり、最後巽からのキスの後の記憶がなかった。
頭からシャワーを浴びる。
巽との体の関係を次の段階に進めるならば、おそらく有希也が巽を受け入れることになるだろう。
有希也はシャワーの中、そっと右の中指で肛門を触れてみた。
素手で触ることなどほとんどない陰部。
硬く閉じられている襞の中に指を押し込んでみる。指の第一関節まではそれぼどの痛みはなく挿れることができたが、気持ちが悪い。
もう少し奥へと指を動かしたが、無意識に指を絞り出してしまった。
鏡にもたれかかって深い息を吐いた。
冷静に検証をする事ではない。
その時になればたぶん巽は優しくしてくれるだろう、身を任せればいいと有希也はそれ以上考えることを止めた。
今ここに巽がいればいいのにと思った。
巽を感じたかった。
逞しい腕で強くきつく抱きしめられたら、いいよって伝えてみようと思った。
有希也は濡れた体を、用意してくれたタオルで拭こうと手を伸ばしたが、壁に掛けてあった巽のバスローブに気付き、フックから外して袖を通さずに纏った。
少し湿りを帯びたいつもの巽のコロンの匂いがした。いつもシャワーの後につけているのだろう。
洗面台の棚に見覚えのあるガラス瓶があった。
(巽さんの香りだ)
瓶の蓋を開けて指先にほんの少しだけ垂らした。
どこにつけるか迷ったが、初めて巽に香水のレクチャーをしてもらった時の事を思い浮かべた。
『俺のお勧めの箇所はこの辺りかな』
とあの時、左胸を指差した巽。
左の乳首の上辺りに見つけた花弁のような初めてのキスマークの事も一緒に思い出した。
今は跡形もないが、鏡に映っている乳首の上に巽の香りをそっと塗った。
コンパクトで整頓されているキッチンに、コーヒーの跡がついているカップがあった。
有希也もカップボードからカップを出して、サーバーのコーヒーを注いだ。ぬるくなっているが、巽の好みの酸味のある味だとわかった。
飲み終えると自分と巽のカップを洗いながら、いずれ必要になるかもしれないローションの事を思っていた。
この部屋のどこかにあるのだろうか。
とりあえずネットで購入しようと決めた。
有希也はその時のシチュエーションを色々想像、いや妄想していた。
外は気持ちのいい天気だった。
巽が困り顔で向かったイベント会場も、この天気も味方して大勢の人が集まるだろう。
どんな労いの言葉を巽にかけようか考えた。
駅までの道を遠回りして川沿いを歩いた。犬の散歩の人達と何度もすれ違う。
数時間前に男に愛されていたなんて誰も気付かないんだろうなと思いながら。
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