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第3話 約束③

 最近、咲人には大きな変化が訪れていた。  大好きだったゲームを封印し、勉強一筋になったのだ。その理由はもちろん、理央と同じ学校に通うため。    万年勉強嫌いだった咲人。でも理央のあの言葉を聞いて、咲人の中で何かが変わった。  理央は咲人の部屋に入るたびいつも、兄の写真を眺めている。  きっと、月ノ宮の制服を着た兄の姿は理央の憧れであり、願望でもあるからだ。  咲人はそんな理央の姿を見て「理央のためにも頑張らなくては」と火がついたのだった。    二人の住む地域では、中学校まで学区ごとに通う学校が決められているため、残念ながら一緒の中学に通うことはできない。なので二人はその先の高校受験のために、今できることから始めたのだ。   「理央くんが来てから、咲人も勉強するようになってくれて……お母さん嬉しい!」  夕食の時間中、母にそんなことを言われた。  実際、理央と勉強を始めてから、咲人の成績は鰻登りで上がって行ったのだ。  わからないことがあれば理央はなんでも教えてくれたし、理央の解説は先生のように分かりやすい。いや、先生よりもわかりやすい。  そんな理央と今から勉強を頑張れば、絶対一緒に月ノ宮学園に通える。咲人はそう、確信していた。  理央が本を借りたいと言うので、今日は二人で街の図書館に来ていた。  ここは以前、咲人が吸血種について調べに来た場所だ。この辺りでは一番大きい図書館で、広い建物の中はステンドグラスで彩られている。  静かな館内。咲人は小声で理央に話しかける。 「なに借りるの?」 「経済学とか、色々……」  理央は本を探すのに夢中らしく、一人でずんずん奥へと行ってしまう。  咲人は楽しめそうもないので、近くの漫画コーナーを覗くことにした。  ──理央って実は、凄いヤツなんじゃ……。  そんなことを思いながらも、自分は呑気に漫画を読む。    最近はすっかり漫画を読むことも減っていた。そんなことを思いながら漫画を眺めていると、理央が目当ての本を抱え戻ってきた。その顔色を見て、咲人は察する。  平日のこの時間は利用者が少ないのか、館内に人は少ない。念の為辺りを見渡して、周りに人が来ないかを確認する。  抱えている本をすべて受け取ると、理央が抱きついてきた。それと同時に、首元に牙が突き刺さる感覚。    それから少しの間、咲人は理央に血を捧げた。  ステンドグラスから差し込む光が、二人を照らしている。  咲人の目の前では、色素の薄い透き通った理央の髪の毛がキラキラと煌めいていた。  その光景を見て、咲人は生まれて初めて美しいという感情を知った。  理央は今まで咲人が出会ってきた、どんな人とも違う。  たった一人にこんなにも思考を奪われるなんて、咲人にとっては初めての経験だった。  理央と出会ってから、咲人の頭の中は理央のことでいっぱいだ。  でもどうして自分がこんなに理央のことを考えてしまうのかが、わからなかった。  わからなかったから、咲人は理央に向けるこの感情を『特別』と名づけた。  理央は咲人の『特別』な友達。だから自分も、理央の『特別』になりたかった。  今日も今日とて、咲人の部屋では勉強会が開かれている。  小一時間は宿題を頑張って解いていたが、咲人は集中力の限界を迎えた。 「んーー、ちょっと休憩!」  咲人は伸びをして、そのまま後ろに寝転がる。ああ。だめだ、糖分が足りてない。咲人はうー……とうめき声を上げながら立ち上がると、引き出しからチョコレートを取り出した。 「理央も食べる?」 「ううん、僕はいいや」 「甘いもの食べたくならないの?」 「まあ……でも、チョコレートはそんなに甘く感じないというか……」  そうなのか。そういえば図書館で読んだ本にも、吸血種の主食は血液で──なんてことが書いてあったような気がする。もしかしたら咲人と理央とでは、味覚が違うのかもしれない。理央はどんなものなら甘く感じるんだろうか。咲人はチョコレートを口に含むと、再び理央のいるテーブルへと戻る。 「んー……チョコは好きだけど、やっぱり勉強は嫌いだ……」  もうちょっと休憩、と咲人は机に頭を伏せた。 「嫌いなことを頑張ってる咲人は偉いよ」  頭上からは、そんな神様みたいなことを言っている優しい声が聞こえてきた。  咲人はテーブルに伏せていた顔を横にずらし、理央の顔を見つめる。  ──……だってこれは自分のためというよりも、理央のためなんだ。    理央が、自分と同じ学校に行きたいと言ってくれたから。  この先理央と一緒にいるためなら、咲人はなんだって頑張れるのだ。  咲人が見つめている間も、理央は相変わらず勉強に集中している。  小気味良く文字が(つづ)られる音と、たまにノートを捲る音。  勉強は嫌いだけど、咲人はこの時間が好きだった。ここには今、理央を傷つけるものは何もない。叶うことなら、ずっとここにいてほしいと思う。   ──でも。それじゃきっと、ダメなんだ。  理央の魅力がもっと、いろんな人に広まればいいのに。  理央のことを好きだと思ってくれる人が、増えればいいのに。  でもそれと同時に、理央を独り占めできていることに優越感を感じてしまっている自分もいるのだった。 『雛鳥は最初に見た動くものを、親だと思い込む』  生き物の習性について学ぶ授業の中で、先生がそう言っていた。それを刷り込みというのだと。それに対して、ある生徒がこう質問をしていた。 『じゃあもしお母さんから愛情をもらえなくても、雛鳥はお母さんだと思い込んでしまうんですか?』と。  その時、咲人の脳裏にはなぜか理央のことが思い浮かんでいた。  先生は生徒の質問に対して頷き、答えた。それが雛鳥の本能なのだと。   理央と一緒にいると、彼はたまに遠くを見つめるような、まるで心がここにないような表情をする時がある。  そういう日は決まって、体に新しい傷が増えているのだ。  理央には、自分の前では傷を隠さないで欲しいことを伝えていた。  その言葉はきちんと受け取ってもらえて、咲人は理央の体に傷が増える度に、これ以上酷くならないよう手当てしていた。  手当てしている最中に、咲人は思い切って理央に聞いたことがある。  この傷は一体誰にやられているのか、と。  すると理央はなんでもないように話し始めたのだ。   ──これはね……母さんなんだ。  ──あの人は、たまに不安定になる時があって……僕に当たることがあるんだ。  ──でも本当は優しくて……とても素敵な人なんだよ。  そうやって初めて母親のことを話してくれた理央は、見ているこっちが泣きたくなってしまうくらい、優しい顔をしていた。  それ以降、咲人がその傷について触れることはなかった。  怖くて、触れることができなかったのだ。  咲人はどうしたら理央が傷つかないで済むのかを考えた。  考えた結果、もっと一緒にいる時間を増やせばいいと思った。  平日だけでなく、土日も会うようにして。なるべく理央が家にいる時間を減らせるように、咲人はいつだって理央を優先した。  でも咲人の努力とは裏腹に、理央の体の痣や傷が減っていくことはなかった。  減っていくどころか、それは次第に数を増やしていったのだ。  咲人は耐えられなくなって、何度も自分の母親に相談しようとしたことがある。  どうしたって、子どもの自分が出来ることには限界があるからだ。けど理央が母親の話をしたときの表情を思い出すと、結局何も言えなくなってしまうのだ。  どんな母親でも、理央にとってはたったひとりの母親だから。理央が助けを求めてくれないと、咲人は何もできない。  したがって咲人には、理央の傷を癒してあげることしかできなかった。  ぱたんと扉が閉まる音で、意識が浮上する。  母親が出かけたのか、時計を確認すると土曜の診療が始まる時間だった。  ベッドから起き上がり一階に降りると、ちびすけが足元に寄ってきた。  子猫が歩くたび、いつの間にか付けられていた鈴付きの首輪が可愛らしい音を立てる。  すっかり懐いてくれた子猫を抱き上げて、そのまま一緒にソファに寝転んだ。  咲人は頭の中で、自分と同じようにちびすけを可愛がってくれている人物が思い浮かべていた。  あれからちびすけと理央は和解したようで、二人で寄り添っているところをよく見かける。  咲人よりも理央に懐いてるんじゃないかってくらいだから、ペットは飼い主に似るというのはどうやら本当らしい。 「お前も理央のこと、大好きだろ?」  ちびすけは分かっているのかいないのか、にゃあんと答えた。  動物だってなんだって、理央のことを好きな奴が増えてくれるのは嬉しい。  待ち合わせの時間が近づき、咲人はちびすけに理央を迎えに行く報告をして家を出た。  公園に着くと、理央の隣には先客がいた。  咲人はそっと近づくも、すぐに理央はこちらに気づく。 「おはよ、咲人」   理央の手元には、さっきまで咲人が撫でていた奴と似たような子猫。 「ちびすけの兄弟?」 「やっぱり、似てるよね」  子猫の首元には、ちびすけと同じような首輪がついていた。 「理央って動物に好かれやすいんだな」 「どうだろう……」 「大丈夫。ちゃんとあいつらは分かってるよ」  この子も理央の優しさを見抜いて、寄ってきたんだろう。ちびすけがこれを見たら、嫉妬するだろうな。  二人の間に淡い桃色の花びらが落ちてきて、咲人は空を見上げる。  例年よりも少し早い桜の開花に、咲人の心は浮ついていたのだ。  もうすぐ、小学校最後の年が始まろうとしていた。

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