6 / 50

第6話 約束⑥

 りんごのおかげかはわからないが、理央の体調は無事に回復した。  ──無理させないように、これからは理央よりも先に公園へ行けるようにしよう。それか暑くなってきたし、夏休みになったら理央には直接咲人の家まで来てもらった方が良いかもな。  そう、咲人たちはもうすぐ夏休みに入るのだ。   夏休みが近くなると学校が短縮授業で帰れたりと、なんとなくゆるくなってくる。咲人はこの、もうすぐ夏休み感が猛烈に好きだった。今日も授業は午前中だけですぐに帰れたので、理央と一緒にお昼を食べた後、咲人は午後の陽気に微睡んでいた。 「咲人、寝ちゃうの?」 「んー……じゃあなんか目覚めること言って」  咲人がクッションを抱えながらベッドでうとうとしていると、足元にぴりっとした痛みが走った。 「もー、それ反則だよ」 「ごめん」  咲人はそうやって怒りながらも、理央の隣に座る。 「最後の夏休みの宿題ってさ、やっぱ多いのかな?」 「どうだろ……あんまり多くないといいね」  いつもは最終日ギリギリにならないと宿題なんて手を付けないが、今年の咲人は一味違う。  理央と過ごす、初めての夏だ。咲人は今から楽しみで仕方なかった。 「なあ理央。夏休みの宿題はやく終わらせてさ、一緒に夏祭り行こうよ」 「夏祭り?」 「そう!近所の神社で毎年やってるの。行ったことない?」 「うん」  それならば、絶対に理央と周りたい。毎年兄に連れて行ってもらっていた、夏祭り。  今年は咲人が理央に案内してあげるのだ。理央は屋台の食べ物には興味ないかもしれないけど、金魚すくいや型抜きだってある。理央だったら射的屋を総嘗めするかもしれない。  しかも今年は、特別な年なのだ。 「今年は五年に一度だけ現れる、池も見れるんだよ」 「五年に……一度?そんな池があるの?」 「うん、理央そーゆーの好きだろ?絶対一緒に見ような!」  理央とあの池が見れたらきっと、一生忘れられない思い出になるのだろう。  その後も理央は神社の池について、興味深そうにしていた。   ──良かった、理央も楽しみにしてくれているようで。この夏休みを二人で楽しく過ごして、理央が元気になってくれればいいな。  理央の様子を眺めながら、咲人はそう願っていた。  別れの日はもうすぐそこまで来ていた。    暗闇の中で息苦しさを感じ、咲人は飛び起きるように目を覚ました。  窓の外を見れば既に日が昇っていて、眩しいくらいにベランダを照り付けている。  全身に嫌な汗をかいていた。濡れたシャツが肌に張り付く感覚が、とても気持ち悪い。  就寝時と違って、部屋の中には熱がこもっていた。エアコンが途中で切れてしまったのだろうか。咲人は何度かリモコンで確認するも、その挙動に違和感を覚える。 「母さん、エアコン壊れたのかもー」 「あらやだ、こんな真夏に?」 「わかんないけど、多分」  一階に降りると、テレビの中で今日もお天気お姉さんが熱中症対策について熱弁している。  今日は朝からうちの庭で、理央と水鉄砲をして遊ぶ約束をしていた。予定よりも少し早い起床だったため、咲人はちびすけにご飯をやったり、一緒に遊んだりした。  そうしてのんびり支度を終えて、いつものように待ち合わせ場所へと向かう。  公園に着くとまだ理央の姿はなく、咲人はいつも理央が座っているベンチへと腰を下ろした。  太陽が照りつける青空の下で、蝉たちの声が忙しなく鳴り響いている。  咲人の足元には、誰かが落としたアイスが残されていた。  そこへ向かって小さな蟻たちが、ぐるぐると列を作っている。  休日の公園には咲人以外にも数名いて、蝉の声と子どもたちのはしゃぎ声が重なり合っていた。  お母さんと遊んでいる子ども。ベビーカーに乗せられた赤ちゃん。サッカーボールを追いかけている少年たち。  咲人はしばらく公園の様子を眺めていたが、いくら待っても理央は現れない。  もしかしてまた、どこかで倒れてしまっているのではないか。  心配になり公園の周辺を歩いてみるが、どこにも理央の姿はない。  咲人は再びベンチに戻る。足元に落ちていたアイスは既に原型をとどめておらず、蟻たちが真っ黒い塊となって轟いていた。  蝉の声。子どもたちのはしゃぎ声。赤ちゃんの泣き声。  遠くでは、救急車のサイレンが鳴り響いていた。  結局その日、理央は公園に来なかった。  理央と出会ってから、初めてのことだった。  それから次の日もその次の日も、理央は咲人のところに来なかった。  咲人は理央の家を知らないし、理央は電話を持っていない。だからいつものように公園で待つことしかできなかった。  そうして時間だけが過ぎていき、明日からはついに夏休みを迎える。  学校を終えた咲人は大荷物を抱えたまま、いつもの公園のベンチに座った。しばらくして、咲人の耳に騒がしい声が聞こえてくる。  入口の方を確認すると、見覚えのある集団がいた。理央と同じ学校の連中だ。  咲人は少し迷ったが、理央のことを聞くために、ベンチから立ちあがろうとした。  その時、彼らの会話が否でも咲人の耳に入ってきた。   ──あいつ、どーなるんだろうな  ──このままいなくなんのかなぁ?  ──さすがにやばいよな、だって……  ──目の前で首吊りって  理央があの日待ち合わせ場所に来なかったのは、母親が自殺をしたからだった。    八月三十一日。咲人の心とは反対に、空は泣きたくなるほど綺麗に晴れている。  今日も咲人はいつもの公園で、ただひとりを待ち続けていた。  あんなに楽しみにしていた夏祭りも、結局参加することなく終わってしまった。  そして夏休みも気づけば、今日が最終日。もうすぐ夏が終わろうとしている。  五月蝿かった蝉の鳴き声は夕暮れと共に、切ない鳴き声へと変わっていく。  先ほどまで賑わっていた公園内は、咲人以外もう誰もいない。   しばらくベンチに座っていると、俯く咲人の前に影がひとつ落ちた。 「咲人」  聞き馴染んだ優しい声に名を呼ばれ、咲人は顔を上げる。  そこには、咲人がずっと待っていた人がいた。  その体は以前よりもっと細くなっていて、今にも消えてしまいそうだった。 「……理央」 「ごめん、約束守れなくて」 「大丈夫。ちゃんと来てくれたから」  咲人がそう言って笑いかけると、理央も笑ってくれた。 「僕……引っ越すことになった」  知ってる。勇気を出して理央の同級生に声をかけた時に、教えてもらったから。  だからもう、咲人は覚悟ができている。できた、はずだったのに。 「そこは……遠いのか?」 「……うん」 「もう一緒に遊べない?」 「……うん」  絶対に理央の前では泣かないって、決めていた。  でも体は言うことを聞いてくれなくて、溢れてくる涙を止めることができない。 「……咲人、君だけが僕を……見捨てないでくれたんだ」 「っそんなの、当たり前だろ。理央は俺の……特別な友達なんだから」  咲人がそう言うと、理央は少し寂しそうに笑った。 「……僕にとっても、咲人はたった一人の特別だよ」  そっか、良かった。自分も理央の『特別』になれていたんだ。 「最後に僕と、約束してくれる?」  その言葉に、咲人はぶんぶんと首を縦に振る。 「必ず迎えにいくから、月ノ宮で待ってて」 「っ……わかった……俺、もっともっと勉強頑張って……必ず月ノ宮に受かるから……っ」  悲しみで震える喉を動かして、咲人は必死に言葉を紡いだ。  泣いている咲人の体を、理央が力強く抱き締める。 「……咲人、いい?」 「………うん」  咲人はいつものように、理央の前に首筋を差し出す。  そこへ理央の唇が寄せられて、次の瞬間、咲人の健康的な肌が一気に貫かれた。 「……っ!……うっ……あ……!」  それは今までで一番強く、まるで理央の存在を刻みつけるかのような、激しい痛みだった。  理央はいつもよりも長く、甘露のように甘く熟した咲人の血を味わうと、ゆっくりと離れていった。 「………咲人、またね」  ──………いかないで。  咲人の本当の思いは形を成さないまま、くうに消えて行った。  こうして、理央は咲人の前から姿を消したのだった。  理央がいなくなっても、咲人の日常はあっけなく進んだ。  勉強して、友達と遊んで、学校を卒業して、新しい学校に入学して。  今となっては最後に別れの挨拶に来てくれたあの姿は、夏の幻が見せた亡霊のようにも思えた。  それでもたった一つだけ、咲人にはあの日を証明できるものが残っている。  最後に血を吸われた場所だけは今も痣となって、この体に残っているのだ。  その痣を隠すように、咲人の首元には常に包帯が巻かれるようになった。  そして四年後。咲人は月ノ宮学園の一年生として、輝かしい春を迎えることになる。

ともだちにシェアしよう!