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第26話 遠い日の記憶⑤【理央side】
咲人と過ごすようになってから、柊とはしばらく会っていなかった。
柊のいる雑居ビルに着くと、昼間とは一変して張りぼてのギラギラとした世界に変わっていた。
いつものように裏口から店に向かう。目的の階まで辿り着いても、今日は誰もいない。
理央は重たい扉を開けて、ビルの中へと入った。
思いのほか奥行きのある通路の先はバックヤードへと繋がっている。
ここには嫌な記憶しかない。理央はため息を一つ吐いた後、入ってすぐの場所にある扉をノックした。
すると部屋の中から「誰だ」と問いかけてくる声がしたので、理央は黙ってその扉を開ける。
部屋の中には、理央の目当ての人物がいた。そして目が合った瞬間、男は苛立ちを隠せない表情へと変わった。
「お前さ……いい加減にしてくんない?ここはお前みたいなガキがくるとこじゃねぇんだよ!」
柊はそう言うと、近くにあったゴミ箱を蹴り倒した。
「……一度でいいから母さんに、会ってあげて」
「うるせぇな!お前は何回言ったらわかんの?その顔見てるとイラつくんだよ」
それは、自分と同じ顔だから?そう思ったけれど、理央は口に出さない。
そんなことを言ったら、きっともう二度とここへは来れなくなる。
「あんたが来てくれないと、僕は帰れない」
「知るかよ!出てけクソガキが!」
そう言うと柊は目の前までやって来て、理央の頬を思い切り殴った。
痛い。母さんの暴力の比にもならないくらい、痛い。この痛みはきっと、腫れてしまうだろう。
明日も咲人と会うのに。こんなんじゃ、会えない。
「おい……何度も言わせんなよ。俺はそんな女知らねーし、お前の父親じゃねぇんだよ。もう二度とここにくるんじゃねぇぞ」
そう言うと男は、倒れている理央に唾を吐いて出て行った。自分に、こんなことをする男だ。
こんな奴の血が自分に流れているなんて、本当に悍ましい。吐き気がする。
それでも母は、理央なんかよりもこいつの方が大切なのだ。
痛い。胸の奥が痛かった。
「……さんが……母さんが、あんたに、会いたがってるんだ……」
ねえ、お願いだから。母さんを愛してあげてよ。
翌日。咲人の顔を見た瞬間、抑えきれなくなった感情が溢れ出した。
今すぐ、この子の血が飲みたい。自分の体に流れるこの血を浄化してほしい。
だから彼から許しを得た瞬間、理央は本能のままにそこへ噛み付いた。
理央から与えられる痛みに必死に耐える咲人を見ていると、不思議と理央の心は満たされてゆく。
咲人にはこんな自分を、知ってほしくない。自分に関わる全てのことから、咲人を遠ざけたい。一番綺麗なところでずっと、笑っていて欲しい。
そう思うのに、酷く痛々しいこの行為を止めることができない。
昨日柊に殴られてから、忘れかけていた苦い記憶たちが蘇った。
咲人と出会ってから勘違いをしていたが、自分は元々幸せになれない側にいるのだ。
生きている世界が違ったのに、自分がそこへ手を伸ばしてしまったから。
太陽のように温かい咲人といると、自分の汚い心が浄化されていくように思えたのだ。
咲人は自分とは違う。咲人が自分に向ける感情も、生きている世界も。それでも。
──僕は君と、同じになりたい。だから君も、僕と同じになってほしい。
その日を境に、咲人への吸血行為は激しいものへと変わった。
自分が母に傷つけられた場所と同じ場所に、吸血痕を散らす。一日に一回だった行為が二回三回と増えていき、咲人の体は理央のつけた傷でいっぱいになっていく。まるで咲人が自分だけのものになったみたいで、心地良かった。
そして理央が顔に傷を付けて帰った日から、母の精神はどんどんおかしくなっていった。
誰にやられたのかを問いただされた際、理央ははっきりと柊にやられたと伝えたのだ。
理央はもう、母に目を覚ましてほしかった。
あの男にどれだけ縋ったとしても、もう無理なのだと。母を愛してくれる人は、きっと他にいると。
でもどれだけ理央が説得しても、母の心には何も届いてないみたいだった。そして母は理央に、言ったのだ。
──理央。欲しいものはどんな手を使ってでも、絶対に手に入れなきゃダメなのよ
──私はね……あの人が欲しいの。あの人じゃなきゃ、ダメなの
それから母は一日中家で寝込むようになり、体を売ることも無くなった。
母に暴力を振るっていた奴らが家に来ても、理央はドアを絶対に開けなかった。その代わり家の外から脅されるようになり、学校の側で待ち伏せされている日もあった。
いつか咲人のところにまで行ってしまうんじゃないかと、理央の精神はどんどん疲弊していった。それが原因で、理央は咲人の前で倒れてしまったのだ。
咲人に看病してもらってなんとか持ち直した後。不安な毎日を過ごしながらも、すぐそこには夏休みが控えていた。
咲人と増えていく約束だけが、唯一理央の心の救いだった。
咲人と水鉄砲で遊ぶ約束をした夜。
家に帰ると、珍しく母が化粧をして理央のことを待っていた。体調が少し回復したのか、これから出かけてくるのだという。
男たちに暴力を振るわれなくなってから、母の顔にいつもあった痣はすっかり綺麗に無くなっていた。
そんな母を見て、いま自分のしていることは間違いじゃないのだと、理央は心から思う。
明日に備えて早めに寝ようとしたところで、玄関にいる母に呼び止められた。
「ねえ理央。今日のお母さん、綺麗だと思う?」
「母さんはいつも、綺麗だよ」
理央がそう言うと、母は優しく抱きしめてくれた。久々に感じる母の温もりは、懐かしい香りがした。
明け方。異様に蝉の声をうるさく感じて、理央は目を覚ました。
約束の時間まではまだ早いが、眠れそうにないので体を起こす。欠伸をしながら部屋を出て、玄関を覗くとそこには母の靴があった。ちゃんと朝には帰ってきてくれたのだと、理央は安心しながら居間の扉を開いた。
扉を開けた先。理央の目の前には、首を吊って死んでいる母の姿があった。
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