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第4話 8階資料室
8階は書庫(資料室)とは言われているものの、実際はいらなくなったものを置いている倉庫のような場所になっていた。
学生のインターンがきたり、社外の業者や、取引先などで長期、社に出向する者がでてきた場合等に、このフロアーを使用してもらっていた。
各種資格試験などに対応できる参考書類も紙媒体で置いている。
学習スペースや休憩室、会議室などもあるが、時期によっては全く使われないフロアーになる。
書庫、資料室は仕事に必要な書籍や資料などが一応揃えてある。
でも今は、デジタルデータで閲覧できる物がほとんどで、わざわざ紙媒体で調べようとする職員はあまりいなかった。
閲覧スペースも設けてあるので、一人で作業に集中したい者や、電子化される前の過去の記録などが必要になった時に、利用する者がたまにいる程度で普段は閑散とした場所だった。
南面と西面がガラス張りとなっているので圧迫感がなく昼間は明るい。流石に今の時間帯は誰もいないので、薄気味悪いなと思いながら、、梶は資料室のドアにIDをかざした。
その時。資料室のドアを開けた瞬間、なんともいえない匂いが梶の鼻腔から入り一気に脳に広がった。
――まずい……Ωのフェロモンだ――
中に発情期のΩがいる。
くそっ……
室内に発情期のΩ特有の独特な香りが漂っている。その中に少しピリッとするような柑橘系の匂いが混じっていて、少し嗅いだだけなのに梶は発汗した。
梶は何度かヒート中のΩの匂いを感じたことはある。でもここまで甘く濃い匂いは初めてだった。
密室だからか室内に充満している。
……惑わされるな!駄目だ……
梶はすぐに資料室のドアを開け外に避難した。
焦ってしまった。緊張してパニックに陥りそうになった。
いや、まて、混乱するな。梶は思いを巡らせた。
このまま気付かなかった事にし、放置してしまおうか。
いったいどこの部署の女なんだ。なんでピルを飲んでないんだ。『Ωピル』が出回っているこのご時世、服用せずにヒートを起こすとは非常識だ。
梶は仕事柄、冷静沈着で慌てたりうろたえたりすることがない。
なのに今は粗暴で卑怯な考えが頭を横切る。
とりあえず状況を確認して必要に応じて対処しなくては。
今までに自分がΩに惑わされた経験は一度もない。大丈夫だ自制心、精神力で何とか乗り切れるだろう。
Ωとできるだけ距離をとり話をしよう。そうすれば大事には至らないだろう。
梶は右手で額の汗をぬぐった。
突然ヒートをおこして困っている者がいて、助けなければならない。だがαの自分が、ヒート中のΩに関わるのはハイリスクだ。
くそっ……
できることなら関わりたくないが、遭遇してしまった。
集中して考えをまとめる。そして繰り返し頭の中で今から行う事の順序を確認した。
大きく深呼吸し腕で鼻を塞ぐ。
そして梶は再度ドアを開けた。
「おい、大丈夫か!抑制剤はどこ!」
口で呼吸しているせいか、威嚇するような大声になる。
……なんなんだこの匂いは……たまらない……くそっ……
「くっ……くるな!こないで!近づかないで」
おびえたような男の声がする。かなり息苦しそうだ。
「ない……」
「なに?」
低用量Ωピルで発情を抑え込んでいない?普通常識的にΩ性の者は、急なヒートに備えて通常抑制剤を持ち歩いているのが当たり前だった。
抑制剤とは、ヒートの症状を緩和させ、匂いやフェロモンをゼロに近い状態にできる頓服薬だ。
「抑制剤を、持ってないんだ……っ……」
「なんで、持ってないんだよっ!」
思わず大声で責め立ててしまう。
暗くてよく見えなかったが、声をきくとΩは男のようだ。
まるで酔っぱらったかのように、フェロモンがねっとりと梶の脳神経に絡まってくる。
抑制剤を飲みさえすれば、発情をかなり抑え込めるのに。
今すぐ薬を手に入れなければならない。
今このビルに残っている社員は、いたとしてもごく少数。バース性がΩの社員で、抑制剤を持っている者は、こんな時間に会社に残ってはいないだろう。
助けを呼ぼうにもあのフェロモンだ。
他の人間を彼に近づかせるわけにはいかない。αやβに襲われる可能性を否定できない。
彼が発する匂いは、それほど強いフェロモンだった。
梶は会社を守る立場にある企業弁護士なのだ。
社から犯罪者を出し、ここを犯罪現場にするわけにはいかなかった。
Ωは床にうずくまり苦しそうに震えている。男性Ω。少なくともレイプ被害を受ける確率は、女性に比べれば少ないらしいが、男性Ωとの行為は段違いに良いという通説を耳にしたことがある。
実際に見たことはなかったが、男性Ω専門の性風俗もあり女性の3倍の料金がかかるという噂だった。性行為をするためだけにΩを飼いならす者も世の中には存在するという。
つらそうな彼の背中にむけて「抑制剤を手に入れるから、少し待ってろ」といい置き、梶は走って資料室を出た。
エレベーターは使わずに階段を3階分駆け上がった。
医務室になら薬があるだろう。
Ωの発情を抑える方法は2つのみ。抑制剤を使うか、αがΩと性行為をしその精子を胎内に入れるかである。後者はあり得ないから、何としても抑制剤を入手しなければならない。
梶は走りながら、スマホで産業医の小野田に電話をかけた。医務室は閉まっているだろうが梶の社員証IDで入室はできるだろう。だが、薬はロックの掛かった薬品庫に管理されているので多分勝手に取ることはできない。
『……プルルル……』
小野田たのむ…電話に出てくれ。
『……プルルル……』
…ツ
『…… ……なに?珍しいな』
小野田はすぐに電話にでた。
『小野田、悪い、急ぎでオメガの抑制剤がいる。今医務室にいる、どこに置いてあるっ?』
息を切らしながら用件だけをいう。小野田は少し戸惑っているのか、無言になった。
『…お薬は使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しく使いましょう、っていうだろ。処方薬だからな。』
小野田は間を置いた。
『……貸しだぞ』
小野田はMIハーバー社の産業医だ。α同士で気が合い、お互い独身だ。同期で話も合うため、一緒にいて居心地が良く、見栄を張ることのない、気楽な間がらの男だった。
勘の良い小野田は察してくれたようで、薬品庫の解除コードを教えてくれた。
『1錠でいいが、かなり酷いようなら2錠呑ませろ。水でも何でもいいから脱水症状にならないように、患者に水分を取らせて。冷蔵庫横に経口補水液あるから、それを持ってけ、20~30分で薬が効いてくるから持、それまでは我慢させて。それと……お前はΩに近づくなよ、それとΩ専用の救急ダイヤ……』
『わかった』
小野田が話し終わらないうちに梶は電話を切る。これは高くつきそうだなと思いながら、薬を取り出し、ペットボトルを数本近くにあったタオルでくるんで医務室を走り出た。
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