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第8話 On the roof

新宿 Rooftop Bar 夜景を眺めながら酒を楽しめると騙されて、梶が小野田に連れてきてもらったのが『On the roof』だった。 老朽化したビルの最上階にあり、目の前に立った新しい超高層ビルのせいでビューポイントは壁だった。夜景は見えなかった。内装はシンプルで清潔だが古臭さを感じた。 いったい何が売りなんだろう。それが梶が感じた最初の印象だった。 だが通ってみると、豪華でこ洒落た現実を忘れさせてくれるようなエグゼクティブバーより居心地が良かった。 ゴミゴミした都会の中を生きている梶や小野田には、ちょうどいい落ち着ける場所だなと思うようになった。 客層もよかったし、美人のマスターの客との程よい距離感もなかなか良かった。 看板や目印がないので、見つけ出すのに困難な細い通りの奥にあり、知る人ぞ知るといわれる隠れ家的バーだった。 あれから2週間が経った。 梶は着替えを持っていってやろうと更衣室へ寄った。常備している自分の新しいシャツを取るために、フロワーを移動したのがいけなかった。 20分も時間をかけてしまったから、梶が資料室に戻った時にはあのΩの姿はもうなかった。 跡形もなく、まるで霧のように彼は消え去っていた。 室内も何もなかったかのように、綺麗に掃除されていた。 ウイスキーの丸い氷は、カランと寂しそうにグラスの中で音を立てた。 仕事帰りに、梶は小野田を誘い、このまえの借りを返すという名目で寿司を奢り、その足で『On the roof』に来ていた。 小野田はさも意味ありげに視線をよこした。 「見つからないというより、避けられてる?んじゃない?」  小野田の端正な顔が厭味ったらしく歪んだ。 まったく腹が立つやつだ。 あの日、資料室でヒートを体験したΩの男の正体が誰なのか分からなかった。 会社の社員の中にはいなかったのだ。どれだけ捜しても見つからなかった。過去に働いていた退職者にまで捜索範囲を広げたが、すべて空振りに終わった。 あの時はあまりに急な出来事だったため、所属部署も連絡先も名前も何も聞いていなかった。最中はそんな時間すらなかった。初めての経験に、自分は興奮しすぎていた。 「土日、休日出社してまで、あのΩを捜したんだぞ」 「何、その執着心。ウケる」 医者とは思えない軽いノリで小野田がいった。 思い悩んでいる梶に対して、まぁ、あまり深く考えるなという意味合いも兼ねての軽口だろう。 職権乱用だったが、梶は弁護士という立場を利用して、一般社員には見ることができないプライベートなデータベースにまで侵入したが、彼の有益な情報は得られなかった。 「言いづらいけど…逃げたくなるほどお前がへたくそだった?とか」 小野田の含み笑いが鼻につく。 正直ラット状態の自分がテクニシャンだったかどうかには自信はない。だけど少なくともお互い最高の快楽を味わったと思っている。 「いやいや、その辺は自信あるんだけど」 わざと胸を張りながら梶はそう言った。 小野田はその自信はどこからくるんだよと笑った。 梶も小野田も今までに付き合う相手はちゃんと選んでいた。恋愛関係がこじれて後々面倒になりそうな相手は避けた。恋人を作る煩わしさを考えると、真剣な交際をする彼女を見つけようとは思はなかった。 仕事も忙しかったので、女性とはあっさりとした付き合いだけを好んだ。 「相手はお前を探していない訳だからな」 小野田はイタいところをついてくる。 「Ωトラップじゃなかったってことだろ?ラッキーだったと思えよ。忘れるのが1番だろう」 小野田もα性だが、彼はΩのことは絶対に避けるようにしていた。 この世には、Ωが生活を保障してもらうために優秀なαをターゲットにし、わざとヒート中に既成事実を作り妊娠をする。 そして数か月後に子供ができたからといって番にしてもらう『Ωトラップ』というものが存在するからだ。 小野田は梶に起こったことがΩトラップではないかと最初は疑っていたのだ。 確かに『Ωトラップ』は、Ωの発情に抗えないαの性質を利用するものだった。 だがαにとって番というのは、1人に絞る必要はないものだ。何人でも番にできる。 しかもαの権力と財力によって、子供ができたとしても、後々どうとでもなるという悲しい現実がある。認知しないという責任感のないαもいる。そうなると妊娠したΩは、1人で子供を育てるか養子に出す。 その後認知されなかった子持ちのΩが、他の者と婚姻関係を結ぶ可能性はゼロに等しい。 ΩにとってこのΩトラップという賭けはハイリスクだ。 梶は資料室の彼が見つかるのなら、それがΩトラップだったとしても構わないと思っていた。 しかし、その可能性は低いだろう。 そもそもあの時間あの場所に梶が行った事はただの偶然に過ぎない。それに明らかに彼は抱かれることを拒もうとしていた。 あの時の行為が妊娠に繋がったとしても、彼にとっては望まない妊娠だろう。今では『アフターピル』を服用するという選択肢がある。事後に飲むと望まない妊娠を避けられるという薬、安価で手に入る。残念ながら彼はその薬を服用しただろう。 「入室記録を操作できた人物だろ?」 「そうだなぁ。俺が入室する前は午前中に清掃会社が入っているくらいだった。その後は誰も入っていない。」 梶が入手した資料室の入出記録ではそうなっていた。 後日、社員証(ID)で入室記録が残っているはずだからと調べてみたが、社員が部屋に入った記録はなかった。梶が入室した記録は3回、21:05と21:30と24:01ちゃんと記録されているのにだ。 それ以前に誰もこの部屋には入っていなかった。 誰かによって、記録は操作されていた。 「役職持ちだったら、記録操作できるだろ。部長とかだったりして」 梶は自分の部署の部長の顔を思い出し、酒を吹き出しそうになった。 確かに役職持ちの者は、比較的容易に記録を操作して変更できる。 しかし彼は若かった。十代といわれてもおかしくないだろう。役職持ちの年齢ではない。派遣社員らは、勤務時間を間違えてしまった時などに上司に報告して、変更してもらう事がたまにある。だから彼は誰かに頼んで、記録を消した線が濃厚だ。 「わるい、わるい。いや、お前がいつになく真剣だからさ」 「小野田。何度もいうが、あのΩは俺の運命の番だ。言ってる自分がかなりイタいやつに見えるだろうが、運命だ。確信がある」 入室記録を操作できる人物は、役職付きの者、警備関係者、あとは社内のSE。 梶はそう思って警備員まで調べたが該当する者はいなかった。役職がある者は梶より年上だし、ほとんどがα、バース性がβの者も何人かはいるが、Ωはひとりもいなかった。 梶の『恋は盲目』感に少々呆れ気味に、ふぅ…と小野田はため息をついた。 「んで、本題に入るけど」 小野田は言った。 「いないな。産業医は仕事柄、職員のバース性は把握している。念の為、隠れΩがいないか医療データも調べてみたけど該当する者はいなかった。Ωの職員の割合は正社員ではない非正規雇用の者が大半を占める。人数にして非正規は83名。けどお前が言う、年齢、性別、容姿に合致するものはいない。Ωのほとんどは既婚者だしな」 「Ωの正社員は12名。うち独身はわずか2名男と女一名ずつだ。そしてどちらもお前の知ってるやつだから該当しない」 小野田が言うようにΩの独身2名の内、一人は法務部の梶の部下にあたる男。 そしてもう一人は、梶に一時期付まとっていた他部署のΩ。彼女はΩのフェロモンを漂わせワザと梶に近付いてきたことがあった。『自社のΩピルを使ってないというのは、如何なものか』とその時は説教した。そして、自分は君には興味がないとはっきり断った。 この二人に関しては、梶自身も顔を知っている人物なので彼らではない。 梶はあらゆる手段で2週間あのΩを捜し回った。 あれ程の美人なのだから目立つだろうし、誰かが彼のことを知っているだろう。彼の噂ぐらいは誰からか聞く事ができるだろう。そう思っていた。 法務部のΩ性の部下にも、思い出せる限りの彼の顔の特徴を説明して聞いてみた。しかしそんな人物は知らないということだった。 八方塞がり、万策尽きた状態だった。 「もしもお前がいう運命の番だったのなら、互いに引き寄せ合うんだろ?いずれまた会えるだろう。気長に待て。急いては事を仕損じるってな」 運命なんて信じていないだろう小野田の、精いっぱいの励ましだった。 ありがたい友情を感じるが、小野田はまだ運命の番に出会ってないのだろう。だからそんな悠長なことを言えるんだ。 運命の相手に出会った時、一瞬で恋に落ちてあたふたする小野田の姿を想像して、その時は『それ見たことか』と笑ってやる。 そう思いながら、落胆した自分の様子を見咎められないよう、梶は一気にウイスキーを飲みほした。

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