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第9話 甘い匂い

梶はその時確かに感じた。 MIハーバーの始業時間は、朝8時30分と定められている。殆どの社員は8時前後に出社して来る。だけど梶は朝7時までには出社するようにしていた。 通勤の混雑を回避する為でもあるのだが、誰もいない時間に仕事をすると、効率が上がるからだった。 いつも通り6時50分に会社に到着し、1階でエレベーターを待っていると、後ろの方から彼の匂いがした。 即座に振り向いた。たまたまその時、清掃会社の職員や荷物の搬入に来ていた業者などで、1階のエレベーターホールが混雑していた。出勤してきた社員も数人いたが彼らからの匂いではなかった。 キョロキョロと辺りを見回し、それらしき人物を捜した。 ここで逃してはならないと、梶は近辺にいる人たちの匂いを嗅いだ。 彼とは似ても似つかない容姿であっても匂いを嗅ぎに近寄った。下手すれば変質者かと思われそうな行動だった。 急いで出口方向へ向かい、ビルから出ていく人たちを追いかけながら匂いを嗅ぐ。 だが、先程ほのかに香ったあの匂いは誰からもしなかった。30分ほど、そこで匂いを嗅ぎ回ったが、誰からも彼と思しき匂いはしなかった。 警察犬並みの臭覚があったら、どんなに良かったか。 梶はこれほどまで犬になりたいと思ったことはなかった。 仕方なくエレベーターに乗り込み8階のボタンを押す。 もしかしたら彼が8階の資料室、そこにいるかもしれない。ついさっきまでいたかもしれない。 だが室内に誰かがいた気配はなかった。バタンと資料室の扉が閉まる音だけが虚しく響いた。 あれからひと月が経ってしまった。もういい加減あきらめろよと自分にいいきかせるように、梶は長いため息を吐く。 キャスター付きの椅子を引いて、彼を抱いた場所辺りに腰掛ける。ちょうど窓際に閲覧用のデスクが並べてあって、書棚以外はいたって無機質なただの部屋だ。 100㎡くらいだろうか、本棚がなければ80人くらい入れる規模の会議室になるだろう。 頭を整理する。 あの日、あの時間になぜここに彼がいたのか。 ①ノー残業デーの水曜夜21時に資料室にいた。 ②社員証による入室記録が残されていない。 ③社内のΩの職員の中にはいない。 ④たった20分の間に跡形もなく消えた。 突然始まったヒートを誰にも見られたくなくて、人の滅多にこないこの部屋に逃げ込んだとする。 そうすると、ヒート中に会社でαと性行為に及ぶなど、不名誉極まりない訳だから、入室記録は誰かに頼んで消してもらった。まぁ、自分でもそうするだろうなと思った。 出勤、退勤時間や社食の清算まで、あらゆる事をIDで管理しているので、間違えが起こることも多々ある。 だから上司に頼んで記録を修正することはよくある。 だが、そうなると社員の中にいるΩのはずだが合致する者がいない。 となると社外の人物が勝手にここに入り込んだ可能性がある。 誰かが違う人物になりすまして会社に侵入していたとすると、窃盗目的、盗撮目的、あるいは産業スパイ。だとしたら、潜入している時にヒートおこして、潜入先の職員に抑制剤もらって、そこの会社の弁護士と性交に及んだ事になる。いくらなんでもマヌケすぎる。 考えるだけバカらしくなってきた。そろそろ始業時間だ。梶はオフィスに行かなければと立ち上がった……? ……あれ? ここの棚だけおかしくないか? 目の前の棚に目が釘付けになる。 本棚の1箇所だけ、明らかに本が頻繁に出し入れされている棚がある。ホコリがそこだけ積もっていない。 1冊抜き取ってページを開いてみた。 そこから、かすかにあのΩの甘い匂いがした。

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