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第10話 つきとめる
梶は考えた。事実だけをあげれば簡単なことだった。資料室に入った者がいなかったのではなく、午前中には入った者がいたのである。
その後は誰も入室していないのであれば、午前中入室し、その後退室しなかったのだ。
入室記録は残っても、退室の記録は残されないシステムだから、出ていったかどうかは分からない。
あのΩの男は清掃員だ。
だとしたら梶が部屋を空けた20分で、室内を元通りに片付けることなど容易だっただろう。
やけに法律用語が出てきたこと、白いシャツにスラックス姿、IDを持っている者だけが入室できる場所、この3点からMIハーバーの社員だろうと決めつけていた。
梶は情況証拠のみで事実認定をすることの危うさを改めて実感した。
清掃員なら、契約している清掃会社の職員を調べれば、簡単に彼が誰だかわかるだろう。
清掃業務は外部委託しているから総務に問い合わせるか。だが大事になるのは避けたいし、できるだけ秘密裏に事を進めたい。
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総務に確認したところ、あのΩが誰なのかの特定は簡単だった。
彼の名前は佐倉悠里(さくら ゆうり)清掃員アルバイトで2年ほど前からうちのビルで働いていた。
彼は仕事を来月で辞めるようだった。1週間の急な欠勤(多分発情期に入ったあの週だろう)があって本人が仕事を続けていく自信がなくなったというのが退職理由である。
勤務態度も真面目だったので残念だと業者の上役は言っていたらしい。
出入り業者の職場環境調査で意見がききたいと、部下に調べてもらった。
完全に職権乱用だったが背に腹はかえられない。普段からあらゆる調査を頼んでいるだけあって部下の仕事は早くて正確だった。
佐倉悠里の写真を入手したときに部下に「もしかして個人的に知りたいんですか?」とこっそりきかれた。
写真での佐倉は、ちょっとしたアイドル並みに可愛らしい顔をした青年だったからだ。
仕事ができる部下なので鼻が利く。
下手に隠すと後が面倒だと思い「恥ずかしながら」と返した。「僕に頼んで正解ですよ、任せてください」と彼は俄然やる気を出してくれた。
Ωとの婚姻が認められている世の中だから、同性間の恋愛に対する偏見はあまりないようだった。
普段ハゲすだれ部長がよく言っている、働くことの対価は金ではなく人からの信頼と人間的な成長だというその「信頼」がここで発揮されたなと思った。
ちょうど退勤の時間が同じだったので梶は小野田に誘われて夕食を食べにいった。
「で、こっそり出勤前に顔を見に行ったりしてないわけ?」
いつものバーで経過を訊いてくる小野田を梶は一瞥した。小野田は確実に面白がっているようだった。
「履歴書を見る限りでは高校は高認だったみたいだし、法学系の資格を取るのは大学へ行ってないと難しいんじゃないか?」
彼が隠れて資料室へ通っていたのは、勉強するためだったと思われる。
よく読まれていたのは法学に関する書籍ばかりだった。本棚には資格試験に必要な過去問題集なども、かなり昔の物から揃えてあった。
ネットで購入できるのでわざわざそこで勉強する必要はないが、彼はデジタル書籍を持っていなかったのだろう。
紙の本になると膨大な量になるし一冊が高額なものが多かった。
「確かにな。Ωだからという訳ではないが、そっちの資格が欲しければ法律事務所なんかのアルバイトをした方がどう考えても近道だし、清掃や食堂でアルバイトをしている感じからいくと高望みだと思う」
今ではΩの為の奨学金制度もあるのだから、大学へ入るのが一番良いように思うが。梶は、彼が独学で勉強はしているがあまり良い成果は得られていないだろうと予想していた。
「せめて専門の予備校に通ってるとか…な」
小野田のもっともな意見に梶は頷いた。
それよりもっと向いている職業があっただろうと梶は思った。
例えば、Ωは生まれながらに容姿が整ったものが多く、芸能界などでは引っ張りだこだときいたことがある。アイドルや歌手などエンターテイメントの世界でやっていけたんじゃないだろうか。
「専門学校へ行けるだけのお金がないんです。Ωで身寄りがなかったら、食べていくだけで精一杯ですよ」
突然思わぬ方向から声が飛んできた。
「失礼します。話が聞こえたもので……」
バーのマスターだった。カウンター席で話していたから内容が筒抜けだったらしい。
「珍しいな、マスターが話に入ってくるなんて」
驚いたように小野田がマスターを見上げた。話しかけられない限り、口を挟むなんてありえない人が話し出したので、梶も小野田も驚いた。
「すみません、小野田さん。ご存じかも知れませんが、私もΩですので彼の気持ちはわかるような気がします」
小野田が驚いて言葉に詰まっているようだったので、梶は同じ性としての意見を聞きたいとマスターに先を促した。
「高校へ通えないほど貧しかったのなら、今も多分厳しい生活をしているのだと思います」
と彼は言った。
「勉強をして自分で高卒認定を受けるなんて、とてもじゃないですが普通はできません」
中卒で身寄りのないΩは、日雇い労働やアルバイトで生計を立てていくか、誰かの愛人になる。または性風俗など、違法な仕事をするしかない。中卒で親がいなかっと仮定する。15歳では携帯電話ですら簡単に持つことができないという年齢だ。身寄りがないなら、保証人になってくれる人などいないだろう。
「役所へ相談すれば身の置き所は確保できるはずで、もし両親がともに他界したのであれば未成年後見人が選任されるだろう」
というと。
「ほとんどの少年たちはそうはしていない。それが現状です」
とマスターはいった。
マスターも苦労してきたのだろうと梶は思った。世の中の汚いものなんて見た事がないかのような美しい外見から、現実的な話が出てくると、やけに生々しく感じられた。
「マスターが言うのも一理あるしその通りかもしれない。でも、これはあくまで想像の域を出ない話だし、直接本人に確かめるしかないだろう」
一通り話を聞くと小野田がそう言った。
「まぁ、『そんなことはあなたに関係ないでしょう。詮索される理由はないし、答える義務もない』そういわれたらそこまでではないでしょうか」
ぐうの音も出ない。まさにその通りだろう。
「マスター、いくらなんでもそれは冷たいだろう」
小野田がマスターに拗ねたように言い返した。
「マスターってそんなにはっきり意見する性格だったの?」
いつも和やかな話題しかふらないマスターに訊いていた。
「好きだから。気になるし面倒を見たい。何が悪い」
梶が言うと、二人ともあっけにとられた様子で
「いや、お前、やけに上からだな、ハラスメント。自分主体の考えだろそれ」
即座に小野田にツッコミを入れられた。
マスターはそれを聞いてクスリと笑った。
「いいですね。弁護士さんから出てくるとは思えない言葉だ」
とスッキリした味わいのカクテルをサービスしてくれた。
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