11 / 61

第11話 罠

彼は月曜から木曜、週に4日午前0時から早朝5時まで働いていた。 彼がこのビルの清掃業務を担当してから、今日までの資料室への入室記録を確認した。そこには、1年ほど前から勤務時間外に、資料室に清掃業者の入室記録があった。 最初は週1~2回だったが、ここ半年間、彼が出勤している日は、ほぼ毎回資料室に来ていたようだ。 記録によると、あの日を境に2週間、彼は資料室にはパタリと来なくなっていた。 その後は様子を伺いになのか、資料室に2度ほど入室しているようだった。 だがまたあの日のように逃げられては困るので、梶は自ら資料室へ立ち寄ることはしなかった。 あれから2ヵ月経った。 梶はかなり我慢して観察した。彼に会ってしまうと、詰め寄って襲ってしまいそうな気がしたからだ。 先週、彼が必ず欲しがるだろう『Ω専用法務士の参考書』を入手し、何冊か資料室に置いてきた。その中には人気があり、注文してもなかなか手に入らない高額な書籍もあった。 清掃業者のIDは、個人の物ではなく業者ごとにそれぞれ同じIDが使われていた。 清掃業者の従業員でΩ性は佐倉だけだったが、あの時資料室にいたのは他の清掃員で、自分ではないと言い逃れられたら元も子もない。 初動をミスして彼を失うわけにはいかない。 現場を押さえなければならない。梶は確実に彼を仕留めたかった。 今日が彼の最後の出勤日、今日がその日だ。 資料室のドアが開く音がした。 梶は棚の後ろに隠れ、息をひそめて待った。 心臓の音が聞こえやしないかと思うくらいバクバクしていた。 今までにこれ程緊張した事はなかった。 彼が書棚の方へ歩いて行った。スマホのライトで本棚を照らし、目当ての参考書を手に取った。 部屋の電気はつけず、テーブルライトだけをつけ彼は椅子に座る。 鞄の中からノートを取り出したようだ。 梶は深呼吸をして、気付かれないように、ゆっくりと彼の席へ歩いて行った。 彼の背後へ立ち梶はそっと右手をテーブルの上に置いた。 「……っ」 ビクンと彼の方が揺れて背中がこわばったように見えた。 「やっと捕まえた。佐倉悠里くん。君を捜すのに、かなり苦労したよ」 「……」 「何か言うことはない?」 覗き込んだ彼の顔は青ざめていた。 緊張というより、恐怖で固まっているようだった。 「……その節は……お世話になりました……」 やっと彼から発せられた言葉はそれだった。 かなり萎縮しているようだ。 視線は合わなかったが、小さいがはっきりした声で彼はそう言った。 「それだけ?」 なんだその挨拶のような返事は……ただ沈黙が続いた。 会いたかったとか、捜してくれてありがとうとか……そんな言葉を期待していた。 「清掃業務時間ではなかったから、君は住居侵入の罪に問われる」 彼の身構えたような様子に、梶の弁護士気質が顔を出してしまった。 小さくなる彼の姿は、まるでライオンに追い詰められた野ウサギのようだ。 「ここに置いてある書物の閲覧は、MIハーバーの社員にしか認められていない。君は部外者だよね」 「はい……」 彼は小さくうなづいた。 いや、違うこんなことを言うつもりではなかった。 「今日でここのアルバイトは辞めます。もう二度とここへは来ません」 まるで部下が上司に仕事失敗を報告をしているかのような言い方だった。 「それは知ってるよ」 「どうか見逃していただけないでしょうか。……本当に申し訳ありませんでした」 怖がらせてどうする。 けれど口から出た言葉は取り返しがつかなかった。 優しくして友好を深めなければならないのに。真逆のコースへ進んでいる。 話の流れを変えなければならないと思い質問に転じる。 「Ω専門法務士の勉強してるよね。1月中旬のやつ受けるの?」 「はい」 「難関だよね」 おいおい嫌味を言ってどうするんだ。そこは頑張れとか言うべきだろう。 「はい」 「少し調べさせてもらったけど、君は大学は出ていないね。高校も……」 「高等学校卒業程度認定をとりました」 取り調べのようになってしまった。まずい。 もう、軌道修正できそうにない。 仕切り直さなくては。 「仕事が終わったら連絡してください」 梶は何故か敬語になる。 「か、か過度な謝罪要求などは脅迫罪、強要罪が成立すると……」 法廷かよ、と思った。 「お前面倒くさい奴だな……俺に内容証明で警告書でも送ってくるの?」 面倒くさいのは自分の方だ。 「ただ、仕事が終わったら連絡してくださいと言っているだけです。なにが脅迫罪だよ、俺、弁護士だぞ」 かなり感じ悪い言い方だ。もうこれ以上悪い方行へ会話を進めてはならない。 梶は、名前も住所も知っているから君は逃げられないよと、当たり前にスマホの連絡先を交換させた。 「あの……仕事が終わるの、早朝なんですけど……」 彼の声を背中で聞きながら梶は足早に部屋を後にした。

ともだちにシェアしよう!