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第13話 最後の職場
早朝5時に仕事を終えた。
最後だということで職場の仲間から餞別をもらった。
ビジネスバックだった。
何故鞄なんだろうと思っていたら「お前はサラリーマンに憧れてるだろう、いつもスーツで出勤してくるからな。いつか願いが叶ったときに叶この鞄を使え」という意味合いがあるらしかった。
なんだかちょっと泣けてきた。あまり話をしなかったけど、みんな良い人だった。
真面目に働く悠里をちゃんと仲間として認めてくれていたようだった。
けれど、毎日スーツで職場へ来ていたことが、サラリーマンへの憧れだと取られていたのかと思うと、少し恥ずかしかった。
朝食を一緒にどうかと職場の皆に誘われたが、用事があるのでと丁重に断った。
「お世話になりました」
深々と頭を下げてビルを後にした。
これから梶隆哉との決戦を迎える。しっかりしなくちゃと気持ちを切り替えた。
仕事中ずっと考えていた。きっと梶は体の関係を求めてくるだろうと。
悠里は今まで誰とも体の関係をもったことがなかった。
ネットなどで見るアダルト動画はグロテスクでとても下劣な行為に思えたし、何より母親が愛人だったことがその行為への嫌悪感を抱かせた。
ただ実際に経験してみると、我を忘れるほど気持ちがよかった。
恥ずかしいけど何度もあの日の事を思い出しては1人で慰めた。
梶も行為中何度も気持ちいいと声に出していた。
Ωとのヒート時の性行為は、すごく良いらしいとネットでも頻繁に目にするから、きっと本当に気持ち良かったんだろう。
けれどヒート中のΩ性の者なら誰と性交しても気持ちが良いはずだ。梶でなくても良かっただろう。そして彼も、悠里に限ったことではないだろう。
勝手に資料室を使用していたからといって、脅迫され脅されて体の関係を持つなんてあってはならないことだと思う。
梶に体の関係を迫られたら、そう答えようと思った。
今回のことは謝罪して、羊羹でも手土産に持っていけば済む程度の話だ。
何故なら僕は仕事を辞めたし、資料室の本を持ち帰ってもいないし参考書の写真だって撮ってない。
逆に発情期のΩと性行為に及んだ梶の方が、状況的には不利なのではないだろうか。
僕がレイプ被害を訴えれば、たとえそれが事実ではなくても、少なからず彼のキャリアに傷がつくだろう。
勿論訴えるつもりなんてないが、彼の要求があまりにも酷いものだったら最終手段でその手を使おうと思った。
先日梶とエレベーターホールでニアミスした。
新しい清掃機のメンテナンスのせいで帰りが遅くなってしまったのだ。
彼の体格に合ったスーツ姿は、まるでモデルのようにカッコよかった。
朝早くからきっちりと絞められたネクタイ、ラペルの折り返しの下部分が美しく浮き上がっているジャケット、オーダーメイドしているんだろうなと見惚れてしまった。
吊るしのスーツ1着しか持っていない自分は、あの人とは住む世界が違うんだなと現実を突き付けられた気がした。
後ろ姿でさえ色気を感じさせる優美なラインから、カリスマオーラが出ていた。彼が声をかければ誰だっていいなりになるだろうと思えるほどのだった。
梶さんが急に振り返ったので驚いた。
人ごみに紛れ、同僚の影に隠れて悠里は何とか逃げ切った。
とにかく約束は守らなければとスマホを手に持った。
まだ朝の5時30分だった。
電話しろといったのは彼なのでそこは気にしない事にした。
「普通の人はまだ寝てるだろうに」
電話が通じなければ、彼を待たずに帰ろうと思った。
従業員用の裏口を出ると、ひんやりとした早朝の風が吹く。冷気に揺らされた髪を押さえながらスマホの電源を入れ、梶さんの番号を押した。
ワンコールで梶さんは電話に出た。
『仕事お疲れ様。俺はこれから仕事だから手短に話すけど』
悠理は単刀直入だなと、緊張して息をのんだ。そして電話越しなのに姿勢を正した。
『君が本当にΩ専門法務士の勉強をしているのか、実力がどれくらいあるのかを確認したい』
予想していたのとは違う、想定外の言葉に一瞬意味が解らなかった。
「……はい?何故ですか?」
動揺してしまったのが相手に伝わったのか、続けて彼は説明しだした。
『あの資料室には、わが社の過去の業績に関する重要な書類も置いてあった。それを君が見ていないかどうか私にはわからない。確認する術もない。だから本当に勉強していたというのならその成果を見せてほしい』
いわれたことを理解するのに少し時間がかかった。
「は?い。ってそんな重要なものが置いてある場所に清掃業者が勝手には入れるIDを発行しているんですか?入室禁止、清掃不要の部屋は、上司から入らないよう指導されてますので入室していませんし、そもそも清掃業者のIDでは入室できないようになっています」
もっともな理由を述べたつもりだった。
『君は部外者だから重要な書類が何かなんて判らないだろう』
部外者だと言われれば確かにそうだし、重要な書類などが置いてあると言われれば、そんなものは見たことがないが、そうなのかもしれない。
一方的に言われるがまま頷いて聴いていた。てっきり体の関係を迫られるとばかり思っていたので、拍子抜けだった。
彼がΩ専門法務士のテストを作るので、実際に悠里に解いてもらう。という内容だった。
もし法務士のその模擬試験みたいなものに良い結果が出せなかったらどうなるのか。
即答すべきではない。そう考えて返事を少し待ってもらえないかといったら『君だってこの件はさっさと終わらせたいだろう』といわれた。その通りだし、何かを要求できるような立場でもない。仕方がなく悠里は承知しましたと答えた。
提案を受けるほかないだろう。勉強の一環だと思えば特に問題はない。僕としては無駄な時間を費やす訳でもない。そう考え土曜に梶のマンションへ行く約束をしたのだった。
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