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第15話 海の見えるマンション

リビングからは海が見えた。珍し気にきょろきょろ辺りを見回していると、デリバリーで頼んでいたのかパスタとピザが部屋に届けられた。結構な量だった。 「昼飯一緒に食べていって」 梶さんがわざわざ注文してくれたようだった。 緊張のせいか悠里は朝から何も口に入れてなかった。 梶さんは悠里を簡単に解放してくれそうになかった。 もうここまできたら彼の話を聞くしかないだろう、なんでもこいという感じになり、遠慮せず頂くことにした。 マンションは、1LDKだった。書斎にしている先ほどの部屋とLDKのある単身者向けの造りになっていた。 家具は極端に少なく、ベッドと大きめのダイニングテーブルがあるだけだった。 リビングにキングサイズのベッド置いてあり、ここを寝室にしているようだった。 キッチンに書類や文房具、何故か靴ベラが置いてあった。 こんな高級なマンションに梶さんは住んでいるのに、物の配置やインテリアには全くこだわっていないようだ。 シンクの中には、DMやチラシなどの郵便物がまとめて置いてあった。 水を出したことがないのかもしれない。IHコンロはパソコン台になっている。 物が少ないぶん散らかっては見えないが、キッチンを仕事スペースにするのは斬新すぎる使い方だなと思った。 食事をしながら、梶さんは話し始めた。 「もう3年前になるけど、俺はΩ専門法務士資格を取得した。うちの社から数名受けたけど合格者は俺だけだった」 もしかしたらとは思っていたが、梶さんは有資格者だった。 話によると、数年前からΩ専門法務士という資格が新しくできるだろうと法曹業界でいわれていたらしく、それに備えて勉強していたらしい。 ただ蓋を開けてみたら超難関資格で、司法試験並みに難しかったということだ。 学歴などの受験資格が必要ないので、試しに受けてみようという人がたくさん受験したらしく、受験者数に対して合格者がその1%しかいなかった。 梶さんは僕が一番不安に思っている口述式試験について話し始めた。 「まず独学では難しい。それは自分でも解っているだろう。対策として何か考えている?」 梶さんの問いかけにドキリとした。 「口述の合格率は高いです。筆記試験に受かった者はそれなりにハイレベルな知識を持っているので、口述式試験は『受からせる試験』だと思っています」 できるだけ自信ありげにそう答えた。 実際悠里はまずいなと感じていた。 口述試験は慣れが必要だからだ。例え、ほとんどが受かるといってもそれはズブの素人の話ではない。 何かしら司法に携わってきた人でないと勝手がわからないだろう。悠里は面接に慣れているとはいえない。 誰かと面接方式で練習をしなくてはならない。 いろんな予備校でやっている口述式試験の模試を受けようとは思っていたが、それだけでは不十分だろう。 「君は法律に携わる仕事をしたことがないよね?大学の法学部出身でもない。そこは他の人と比べてかなり不利だ」 まさに正論、痛いところを突かれた。 「結論からいうと、俺は君の口述試験の勉強を手伝う」 悠里は驚いて目を見開いた。 まさか、手伝うと言ってくるとは思わなかった。 「とてもありがたい言葉です」 礼を言って、少し間を置いて言葉を継ぐ。 「ですが対価は何ですか?僕に勉強を教えても、梶さんへのリターンがない」 僕にとっては喉から手が出るくらいに欲しい、ありがたい提案だった。けれど、彼がなぜそうするのか理解できない。 リターンは『愛人契約』だろう。 心の中でそう思った。 子供ではないんだからそれくらいは容易に想像がつく。最初からそれが目的だったんだろう。 模擬試験なんかはただのフェイクでしかなかったんだ。 梶さんの沈黙は続く。 体の関係を持って、その対価として合格する為の指導を約束してもらう。とても解りやすく簡単な話だ。 だけど自分は母親と同じような道を選ぶつもりはない。 「本当にΩ専の勉強をしていたのか確認したいとおっしゃいました。なので、していた証拠を示せたと思います。ですからこれで失礼します」 受けるつもりのない提案は聞く必要もない。 しかし梶さんは、いやまだ待ってと僕を止めた。 「確認は取れたよ。ちゃんと学習していたんだなと感心した。だけどなぜ家で勉強せずにうちの社の資料室を使っていたのかな。必要な書籍があったのは分かるけど、危険を犯してまで、そうする理由は何だったの?ハイリスクだよな」 その通りだ。そこは誰もが疑問に思うだろう。 その理由は騒音だった。 安いアパートだから壁が薄く、隣に外国人が住んでいて、しょっちゅう夜にパーティをする。隣人なので仲よくしてはいたが、国民性なのか南米の人達は陽気で賑やか過ぎた。 近所に消防署があり出動する度にサイレンがけたたましい音を立てて、挙げ句2年前からアパートの筋向いに大型商業施設が建つらしく大規模工事が始まった。 引っ越したかったがそんな余裕はない。仕方なく昼間は図書館へ夜は職場で、静かな場所を探しながら勉強するしかなかった。 勉強する場所を確保する事さえできない。自分の貧しさが恥ずかしかったが、説明しなければ納得してくれないと思い梶さんにその事を正直に話した。 彼はなるほどと頷き、羊羹を口に運んだ。 包丁がなかったのかもしれない。羊羹は謎の乱切りになっていた。 「この部屋は、まぁ見てわかるように寝に帰るだけの部屋だ」 梶さんの話が変わった。 「日中はほとんど使っていない。朝は6時に家を出る、夜は22~0時くらいに帰宅。風呂に入って寝る。ほとんどこの部屋は誰も使っていない状態だ。勿論出張などで家を空けることも多い。だから……ここを君が勉強に使っても構わない」 こっちに来てといって、梶さんは先ほどいた書斎に僕を連れて行った。部屋の隅に積んであるダンボールを空けて中から法律関係の本を出してきた。 「Ω専門法務士関連の書籍はほとんどある。君が必要としている本はここにあるだろう」 梶さんは、本棚に整理して並べる時間がなかったといってダンボール3箱の蓋を開けた。 「紙の本は重たいから、今は電子化されてるものを持つ方が効率的だ。この専用タブレットに全て入っている」 これね、といって手渡された。 「Ω専(Ω専門法務士)関係の物は今は俺は使用していない。誰かの役に立てば、それに越したことはない」 タブレットには、最新の電子書籍など悠里が買おうと思っていたものが全て入っていた。 贅沢な環境だと思った。今必要な物がほとんどここには揃っている。 窓に付けられる形で先ほどテストを受けた机があり、右側にはベッドになると思われるソファーが置いてある。 入口手前にデスクトップのPCモニターやプリンター、タブレットなどが置いてあるワークスペースらしきものがあるが、乱雑な配置を見ると使用頻度は低そうだ。 「何もせずに、ただ勉強スペースを与えてもらえるというのは、いくらなんでも調子よすぎな気がします」 勉強に集中できそうな机。防音が効いているのか静な部屋。レンタルのワーキングスペースよりはるかに環境が整っている。 ただで借りられるなんて話があるわけないだろう。 「Ωの弁護士はほぼ居ないのは知ってるよね。Ω専に関していえば0人だ」 Ω専門法務士の資格取得第一号になれ。俺はそれを見てみたい。梶さんはそういった。 「君の将来への投資」 体の関係を迫られるなんて思っていたのは、僕の勘違いだったのだろうか。 そうだったら思い上がりもいいところだ。恥ずかしく思い悠里の顔が赤くなった。 会社の資料室に勝手に侵入して、ヒートを起こした自分を(やり方はどうであれ)何とかしてくれたのは梶さんだ。 その上勉強する場を与えてくれるなんて、親切すぎやしないだろうか。 即答しない僕に彼は続けていった。 「住み込みのハウスキーパーさん探してて」 「……はい?」 家政婦って、住み込みで?このワンルームに? 「……っていうかそれ、お金出せばいくらでもプロの人雇えますよね」 「他人を部屋に入れたくない。学生ならいい」 何なんだろうその謎ルールは。 「すみません。意味がわからないんですけど」 正直に答える。 「恥ずかしいが、俺は整理整頓が苦手だ。だらしない自分を見られたくない。外ではキチンとしているが家ではまぁ、こんな感じだしな……」 辺りを見回し同意を得ようとするかのように僕を見た。 ようやく梶さんの言わんとするところが、自分にも伝わった。 今まで人を部屋によんだことがないらしく、昨夜は大掃除したらしい。その結果キッチンのシンクがゴミ置き場になったようだ。 外では付け入るところがなさそうな、完璧な弁護士に見えるが、こういった一面があるのかと少し親近感がわいた。 ハウスキーパーというのは、僕に変な先入観を与えないように考え付いた苦肉の策かも知れない。 今、即答を求められている。 悠里は考えた。 そこまでして自分に協力しようとするこの人を、僕は信用してもいいのだろうか。 なにより彼はαだ。完全に彼を信用する事は悠里には不可能だった。 けれどもし、何か大きな不都合があれば、自分のアパートに帰ればいいだけだ。 どれだけ長くても数ヶ月の話だ。 「いつでも自分のアパートに帰っていい、という契約条件付きならば」 費用対効果を考え、悠里はこの提案を受けることにした。

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