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第16話 新しい住まい
今日の勉強は半ばあきらめて、部屋の整理をすることになった。
書斎にあるダンボールの中の本を空っぽの本棚に入れた。
とても良い参考書が色々あった。
梶さんが勉強していたのか、メモの跡やマーカーで印がしてある場所などをみると、自分も頑張らなければとやる気が出てきた。
二人で作業しながら、一緒に暮らすルールみたいなものを作っていった。
梶さんは食事は3食外食らしいので、定退日の水曜と休みの日の夕食を僕が作ることになった。
部屋の掃除とクリーニングの受け取りなど日常の簡単なことをやるよう頼まれた。
男性一人暮らしの部屋の片づけなんてたかが知れている。
動きやすい動線さえ作れば後は単純な作業を繰り返せばいいだけだから、家事といってもほとんどする事はないだろうと思った。
その他の時間は僕が自由に使える。
「君は書斎を好きに使ってくれていい。俺の出勤時や帰宅時に迎えに出なくてもいいから、とにかく悠里くんは勉強に集中して」
梶さんは笑顔だがきっぱりとそう言ってくれた。
仕事の時でもこういう顔で部下に話をするのかな。そう考えると、自分にこんな上司がいたらきっと、仕事頑張ろうと思うんだろうなと感じた。
αであるから当たり前に備え持った気質なんだろう。
そう考えると、世の中は不公平にできているんだなと恨めしく思えた。
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それから二人で近くのスーパーに行って必要なものを購入した。
梶さんの家には食器や調理器具がほとんどなかった。
100均で食器を買いたいという僕に、そんな安いところで買わなくても良いだろうと嫌がられた。どうせ捨てられるだろう物に、高い代金を払うのは現実的ではないと思ったので、ここのお店の物がいいですと押し切った。
「初めてのおつかい」さながら「初めての100均」で、梶さんは意外に楽しそうにしていた。
彼は便利グッズコーナーの前からなかなか動かなかった。少し困った。
チャコールのツイードジャケットを羽織った背の高いイケメンが、100円の脚が曲がる三脚のスマホスタンドを興味深く見ている様子は滑稽だった。
近くを通る主婦が振り返って梶さんに見惚れていた。
頼んでいたスーツが出来上がっているからと梶さん御用達のテーラーへついて行った。
今日の記念にと梶さんが僕のスーツを新調してくれた。
僕なんかには到底手が出せない金額だった。
梶さんに買ってもらったが、悠里はまとめて後日代金を支払うつもりだった。
今、自分が払うと言ったら、彼が気分を害しそうな気がしたからだ。
新しく購入しようと思っていた書籍代を充てたら何とかなるだろうと思った。
明日の昼頃、車で迎えに行くからと梶さん言った。悠里は自分で来られると言ったが、荷物もあるだろうから迎えに行くと頑なだったので仕方なくお願いする事にした。彼とはその日の夕方に別れた。
アパートに帰って今日できなかった分を取り返さなくてはと悠里は参考書を開いた。
梶さんと一緒にいた時間はまるでデートのように楽しかった。
デートなんてしたことはないから、実際はどんなものなのかわからないが、夕方別れ際には『まだ帰りたくない』といいたくなった。
今日一日でいろんなことがあった。
まさかの急展開、こんなにいい条件で勉強スペースが確保できるとは思っていなかった。
梶さんは思っていた人物とは違って、とても優しい良い人だった。
買い物へ行くときの服装は、カシミヤのVネック長袖ニットをさらりと着、オリーブ色のストレッチツイルチノパンはサイズ感もぴったりで、ただの無地のコーデなのにどこかのモデルのようにカッコよかった。
梶さんの大人の男オーラに圧倒されそうだった。
見た目もさながら、立ち居振る舞いまで全て、自分が目標にできる憧れの弁護士だ。
そしてなにより一緒にいて楽しかった。
αである彼には心を赦してはいけない。けれど悠里の気持ちはフワフワとした幸福感で満たされていた。
どこかで火事があったのだろうか、消防署から消防車が出動していった。いつもならイライラしてしまうサイレンの音が今日はなぜかトルコ行進曲に聴こえた。
長年聴いていると、サイレンの音にも種類があることが分かってきた。その中にトルコ行進曲なんてあったのだろうか……そんなことを考えながら、疲れた体を薄い布団に横たえ悠里は眠りについた。
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翌日僕が準備した荷物の量の少なさに梶さんは少し驚いていた。
「これからうちに住むんだけどその量で大丈夫?」
はい、大丈夫ですと答えた。
荷物は2泊3日の旅行程度の着替えと中華鍋が一つだけだった。
1人暮らしを始めて最初に買ったのがこの中華鍋だった。蓋さえあれば米だって炊ける。パスタだって茹でられるし煮物、揚げ物何でもこの鍋一つあればできることを知っていた。
場合によれば洗面器として使ったりもできる。長年、定食屋でバイトしていたおかげで、ある程度の料理は作れるようになっていた。そして、そのほとんどが万能の調理器具、中華鍋で全て作れるのだ。
マンションの部屋に着いて荷物を入れると、梶さんはすまなさそうに。
「実は急な出張が入ったんだ申し訳ない」
そういって部屋の鍵を悠理に渡してきた。博多に行かなければならないらしく、帰りは3日後だと慌ただしく部屋を出て行ってしまった。あとは好きに使って、またメールすると言っていた。
出会ったばかりの者に鍵を渡すなんて、なんて無用心な人なんだと思った。けれど出会ってから今まで驚かされてばかりだったので、今更気にしないことにした。
今日は日曜だけど梶さんは出勤していたようだ。仕事の合間に時間を作ってわざわざ迎えに来てくれたみたいだった。言ってくれれば1人で何とでもできたのにと思った。
このまま梶さんとは入れ違いで、顔を合わせることもなく生活していくのかもしれないと思うと少し寂しい気持ちになった。
けれど自分のするべきことは決まっている。
ここへ来たのは勉強するためだ。
梶さんの事は極力考えないようにしなくてはいけない。ここまでしてもらって肝心の試験に落ちる訳にはいかない。自分を追い込んで集中しなければ。
新しく手に入ったタブレットで悠里は早速勉強し始めた。
休憩に外へ散歩しに行く。海沿いの道には人口の砂浜が作られていて、裕福そうなファミリーが公園で遊んでいた。
散歩している犬は、図鑑でしか見たことのないような、お世辞にも可愛らしいとはいえないひょろ長い犬か多かった。猟犬っぽいものもいた。都会であの犬たちは何を狩るんだろうか……
そんなことを考えなが、日常の買い物ができそうなスーパーやパン屋さん、コンビニやドラックストアなどの場所を確認した。どこもお洒落で洗練されている。美しく舗装された海岸線、刈り込まれた芝生。優雅に振る舞うお上品な人々。視界には奇麗な物しか入らない。
ここは住む世界が違うなと悠里は実感した。
翌日部屋に宅配便が届いた。梶さんが僕の為に普段着や部屋着、下着に至るまでネットで買い物をしたらしい。
また無駄なものをと思ったが、同居する相手がみすぼらしい服装をしているのが嫌なのかもしれないと思い直た。もう買わないでくれという代わりに、ボロボロになるまで着倒してやることにした。
翌日の夜8時ごろ玄関のチャイムが鳴った。
来客らしかった。1階のエントランスからのチャイムではなく、直接玄関に来られるとすれば友達?恋人?近所の住民のクレーム?いろいろな人物が頭をよぎった。怖い、どうしようかと恐る恐る玄関を開ける。ボーダー柄の長袖Tシャツにイージーパンツというラフな服装の愛想の良い男性が立っていた。
「あ、すみません。隣に住んでる者ですが、間違って荷物受け取ってしまったみたいで」
そういいダンボールを手渡してきた。確かに梶さんから僕に宛てた荷物だった。
「あ、そうですか。すみませんわざわざありがとうございます」
隣人らしいので、感じ悪くならないように笑顔で受け取った。
「え、と…初めましてですね。山本といいます」
「あ、初めまして、佐倉です。あの、勉強の為に部屋を数か月ほど借りている者です。なのでここの住人ではないんです。梶さんは今は出張でいないんです」
「ああ、なるほど、と山本さんは頷いた。何度か軽く挨拶を交わしたことはあるけど、お隣さんは、かっちりしたサラリーマンって感じの人だったから、新しい人が引っ越してきたのかと思った」
笑顔で話しかけてくれたので、安堵したような空気が漂う。
それから勉強って何の勉強?と質問された。ここ2日ほど誰とも会話していなかった僕はいつになく饒舌になった。
フリーランスで音楽関係の仕事をしているらしい山本さんは、貧乏学生から成りあがったタイプだと言っていた。
お金持ちが住むマンションへ引っ越してきてから、ご近所付き合いがなくなったらしい。みんなよそよそしいので寂しいと彼は言って、スーパーとか高いよねって話で意気投合して笑いあった。
山本さんは30分ほど立ち話をして、部屋に帰って行った。
部屋に引きこもってばかりはよくない。日に一度は家から出て誰かに会った方がいいと悠理は日課に「散歩」を入れる事にした。
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