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第17話 梶さんの帰宅

『今日は帰宅が0時回るかもしれないので先に寝ていて』 とラインがきた。 今日は水曜日だったので、もしかして食事を一緒に取るかもと準備していたけれど必要ないようだ。 思っていた以上に梶さんの仕事は忙しそうだった。 クリーニングに出していたシャツのタグを取ってクローゼットに吊るし、ネクタイなどは色別に配置しなおした。 帰ってから気持ちよく寝られるようにシーツを洗濯して、バスルームにはふかふかのバスタオルを用意した。冷蔵庫に入っていたビールと水は同じメーカーの物を買い置きしておいた。 0時少し前に玄関の開く音がした。 「おかえりなさい」 悠里は玄関先まで出ていった。出迎えなくていいとは言われていたが、最初からそれは失礼だろうと思い起きていたので出て行った。 「あぁ…ただいま。……君の匂いがする」 そういって梶さんは部屋に上がると僕を抱きしめた。 髪に顔をうずめて匂いを吸い込んでいた。 悠里は驚いてそのままフリーズしてしまった。1分ほど抱きしめた後、解放されたので、特に何も言わないでいた。 梶さんの家なのに、気がつかないうちに自分の匂いがこの部屋に充満していたのかと、少し申し訳なくなった。 明日は部屋の空気を入れ替えなければ、ちゃんと換気しようと思った。 「寝ててよかったのに、悪かったな」 梶さんはスーツのネクタイを緩めた。 話をしたいなと思っていたが、梶さんは疲れていそうだったので自分の部屋に退散することにした。 「あの、じゃぁおやすみなさい」 「ああ……おやすみ」 ぎこちないあいさつの後、部屋に戻って電気を消して目を閉じた。 抱きしめられた時に梶さんの匂いが鼻腔をくすぐった。心地良く幸せな匂いがした。αだからなのか高潔で洗練されていて、暖かい日なたのような梶さんの匂いだった。 少しして梶さんがシャワーを浴びる音がした。 梶さんの体を想像して、悠里の下半身がうずいた。こういう気持ちになるのは自分でも珍しい。久しぶりの感覚だったが、人様の家で不謹慎だと思い無理やり眠った。 翌朝5時半に梶さんが起きる気配がした。 僕も出ていって朝食作った方がいいのかな。コーヒーくらい入れてあげたいなと思ったが、最初に決めたルールにそれは含まれていなかったので寝たふりをした。 翌日は彼は22時くらいに帰ってきた。またお帰りなさいと出迎えると、昨夜と同じように抱きしめられた。 僕も昨夜と同じように梶さんの匂いを吸い込んだ。 数分で放してもらった。 これは、なんなんだろう……ただいまのハグなんだろうが、普通誰しもするのだろうか。 外国人だったらするのだろうか。梶さんは海外生活をしていたのか。 いろいろ考えたが、ハグに関しては全く嫌ではなかった。あの匂いに包まれる瞬間を楽しみに毎日勉強を頑張ってる気さえしていた。 それからも僕が出迎えると必ずハグされた。 充電っといいながらハグすることもしばしばあった。 梶さんにとって僕は、癒し系のペット的な、そんな飼い猫の位置づけなのかもしれないと、なんとなく納得して日々過ごすこととなった。 まだ僕が起きているような日は、シャワーを浴びた後、ドアをノックして勉強で解らない所はないか?と訊いてきてくれた。 難しい問題は解りやすく。どうやっても時間がかかる問題は短時間でできるようにコツを教えてもらった。 自分の考え方以外の意見に驚いたり、納得したりしているうちに時間が長くなり、午前3時まで勉強に付き合わせてしまった事があった。 反省して家庭教師は休みの前の日だけでいいですと断ることにした。 すると翌日から梶さんの帰宅が2時間ほど早くなった。 食事を一緒に取ると言い出したのだ。 夕食を家で食べれば2時間も早く帰宅できたのかとびっくりした。 それなら今までも一緒に食事したらよかったのに。と思ったが、多分梶さんは、2人分の食事を用意するのが大変だろうと気を遣ってくれいたのだろう。 キャベツをざく切りしニラを5cm幅に切り、ニンニクは薄切りにする。 ゴボウも大きめのささがきにしてもやしを水洗いした。ゴボウは出汁がでるので鍋に入れると美味しい。今日はもつ鍋を作ろうと思った。 明日は土曜日だし、少し臭いのあるものを食べても大丈夫だろうと具材を鍋に入れた。 牛ホルモンの臭みを取るために薄力粉をまぶしてよく揉み、水洗いしてさっと湯通しした。 定食屋でバイトしている時は、誰かに料理を作って出すことは仕事だった。 残さずに食べてくれると嬉しかったけど、とにかく揚げ物でさえあればたいていの男性は喜んで食べた。 唐揚げさえあれば生きていける胃の丈夫さは男特有の物だろう。 けれど梶さんの為に作る食事は野菜を中心に意識して作った。外食だと不足しがちのバランスの良い食事を心がけた。 掃除して洗濯して、体に良い食事を作って、を繰り返している。 梶さんの為に何かをすることを嬉しく思っているし、まったく苦ではなかった。 「ただいま」 梶さんが帰宅したので玄関で出迎えると、鞄とコートを足元に置いていつものようにハグしてきた。最近は慣れたもので悠理も腕を梶さんの背中に回して軽く抱きしめる。 「今日は鍋?」 「はい。火を入れたら食べられます」 梶さんを見上げてそういうと、お互いの視線が合ってしまう。 梶さんは悠理の首筋に顔を埋めてちょうど鎖骨のあたりにキスをした。 悠理は驚いた。 「……梶さん」 名前を呼ぶと、梶さんは抱きしめた腕に力を入れて思いきり悠里の体を離した。 「ごめん……」 ぶんぶんと頭を振って「飯にしよう。腹減った」と言って部屋に入って行った。 首筋にだったけれどそれは確かにキスだった。 何度も繰り返すうちにハグは友達同士のそれではなく、恋人同士の愛情を確かめ合うようなものに変わってきていた。 それとなく悠里にはいつかそうなるだろうという予感はしていた。 ただタイミングがわからなかった。 自分から梶さんに恋人になってほしいと思うのは厚かましい気がしたし、ましてや抱いて欲しいなんて言える訳もない。 ただ毎日顔を見るたびに変なアドレナリンがでてきて、体温が2度ほど上がっている気がした。 その日の夕食の間はあまり話をしなかった。 気まずい感覚は口の中に残る噛み切れないモツのように、悠里の心の中に残ってしまった。

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