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第21話 それが優しさ
梶は悠里がとりあえず部屋に戻ってきてくれたことにほっとした。
先ほどの、まるで怪物でも見るかのような悠里の目は、怯え、恐れ、自分に向けられていた。梶はわけが分からない悠里の態度に、どう接すればいいのか戸惑う自分に内心とても苛立った。
買い物途中で何かを見たであろう事は想像ついたが、それが何なのか判らなかった。
途中で自分達の間に入ってきた、あの山本という隣人のことも、悠里から何も聞いていなかったので驚いた。
思わず掴みかかろうとしてしまった。
一緒に暮らしているというのに、なんてザマだ。自分の不甲斐なさに落ち込んだ。
冷静に物事を判断し、怒りを他人にぶつけたりする人間ではない自分が、悠里に限っては正反対に動いてしまうことが腹立たしかった。
悠里が話し終えるまで梶は一言も声を発しなかった。
母親が亡くなった雪の日に、悠里が父親に会いに行った話は、流石に同じαとして許せるものではなかった。
初めて聞くその内容に衝撃を受けた。
彼が恵まれない生い立ちであることは、想像がついたし、その苦労はΩ性に生まれた者には珍しい事ではないと思っていた。
だがまだ十代半ばの少年に残された『母親が自分の前で死んでしまった』ような大きな傷は、梶には想像つかないようなトラウマを産んだだろう。子供には衝撃的な出来事だったに違いない。
自分が責任を感じているのかもしれない。
子供の頃に経験した出来事の恐怖感が強烈だったり、大事な人や物を失ったり、その後の環境で安心感が持てなかったことにより、生活に支障が生じていると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という状態になっている可能性があると聞いたことがある。
専門家ではないので今後どうすればいいのかは、梶が決められる事ではないとも思った。
自分のいる状況が落ち着いて、安心感を取り戻せる環境の中にいられれば、次第に症状は落ち着いていくといわれるPTSD。
なかば強引にここへ住まわせて、彼が自分なり築いてきた環境を変えさせてしまったのは梶本人だった。彼はその環境の変化にも、悠里は順応しきれなかったのかもしれない。
「今日は、あのスーパーで父親を見かけ、取り乱してしまいました」
そういった悠里の目に涙が溢れてくるのを見る。
抱きしめて守ってやりたいという庇護欲が湧いてきた。我慢した。
悠里が法曹を目指した前向きでない理由にも、納得できた。
しかしα全員に対して敵対心を持っていて、憎んでいるといった悠里の気持ちは、解らないでもないが間違いだ。
多種多様の人々が住むこの世界で、αが全て同じであるという決めつけは平等ではなく、法の世界に携わろうと思っている人物ならなおさら持ってはいけない感情だ。
話を聞き終えて梶は悠里に尋ねた。
「α全員に敵対心を持っている?持っていた。ではなくて?」
それは少しだけある望みだ。
自分が悠里と共に過ごしたこの日々が無駄ではなかったと信じたい。
「α全員に敵対心を持っています。ただし、梶さん以外にです」
悠里はそう答えた。そして続けた。
「梶さんには感謝しきれないほどの恩を感じています。ただ少しの間、勝手かもしれませんが自分のアパートへ帰りたいです。帰らせてください」
今一緒にいる事で不安になってしまう。もし梶さんが母親のように急にいなくなったら、自分は生きていけない。その恐怖が執着になるのが怖い。そんな思いをするのなら一緒にいない方が楽だ。そう悠里は梶に伝えた。
それは梶が悠里の前からいなくなる前提だろう。
そうはならないし、梶としては一生一緒にいる覚悟はとうにできている。
彼から感じ取れる、とりとめもない不安と、いたたまれない様に胸が痛んだ。
梶の気持ちを悠里に伝えて安心させようとしても、今の彼には通じないだろう。
彼の思い込みを外側から溶かしていくタスクは自分がしなければならないことだが、それはとてもデリケートで時間がかかる。
今悠里は試験をを控えた大事な時期だ。考えなしに攻め込むのは状況的にもよくないだろう。
話は平行線になるのは目に見えている。
長い間二人は沈黙していた。
思っていることをお互いぶつけ合う事ができなかった。
今はその時ではないし悠里には落ち着いて考える時間が必要だと梶は考えた。
「悠里にとって、今は一番大事な時期だ。悠里の思うようにすればいい。俺はこのマンションに一緒にいるよう強制はできない」
悠里は少し驚いたように目を見開いた。
梶にポンと突き放されたような気がした。
自分が言った事とは矛盾しているが『出て行くな、一緒にいろ』と言われるだろうと心のどこかで思っていた。
涙がまた出てきそうになったが懸命に堪えた。足下から崩れ落ちてしまいそうな自分を奮い立たせ最後の強がりを言う。
「……ありがとうございます……」
と梶に深く頭を下げた。
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「寂しいよ……」
「僕も寂しいです……」
「必ず戻ってきて欲しい」
「そうできるように頑張ります……」
最後はとてもあっさりとした挨拶になった。
悠里は、自分が最初に持ってきた着替えだけを鞄に詰めて、タクシーで帰りますといった。
梶はこれは勉強に必要だから持っていってと、すべての参考書などが入っているタブレットを渡してくれた。
ーーーー愛しているよーーーー
そう梶は心の中で呟いた。
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