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第41話 喫茶店

事務所が入っているビルの1階には、常連客しか来ないだろうというようなややくたびれた感じの喫茶店がある。 悠里が『レイコ』という飲み物が、アイスコーヒーだと初めて学んだ場所でもあった。時間が昭和のまま止まっているような店だった。 悠里は道で呼び止められた彼を誘って、その喫茶店へ入った。 話があるというので事務所にと思ったが、先生が帰ってくると、内容によっては面倒なことになるかもしれないと感じここで話をすることにした。 席に着いて飲み物を注文すると、彼は懐かしそうに悠里の顔を見た。 『覚えてらっしゃらないかと思いますが、私は30年近く田中井英雄の運転手をしていた者です』 彼は悠里にそう言った。 悠里はこの人の事を覚えていた。 母が亡くなった最後の日、悠里はこの人から2万円をもらった。 忘れたくても忘れられないあの雪の日に、父の職場で会った田中井の車の運転手だった。 2万円を握り締め、そのお金でお酒を買ってアパートへ帰ったんだ。 過呼吸にならないよう、悠里はゆっくりと息を吐いた。 「お久しぶりです。覚えています。その節は……」 できるだけしっかりと声に出して挨拶をした。 「あなたを助けてあげられなかった。ほ、ほんとうに……申し訳ない」 彼は涙ぐんでテーブルに額が付くほど頭を下げた。 それから二人とも声を発することができなかった。 一瞬であの日の事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。 この運転手は沢田さんというらしかった。悠里は初めて彼の名前を知った。 父親が家に来るときは、悠里は外で待っているように言われた。 姿を見せてはいけない約束だった。 昼間ならまだ公園などで時間を潰すことができたが、夜暗くなってからだと物騒だったし、決して治安の良い場所ではなかったので子供には危険だった。 田中井の運転手は悠里をみつけると、こっそり車の中へ入れてくれた。 お互い何も話をしなかったが、彼は寒い日は温かい飲み物を自販機で買ってくれ、悠里に飲ませてくれた。 家から持ってきたおにぎりをくれたこともあった。 そのうち、悠里がアルバイトをするようになり、アパートへ父が来るときに家にいる事は少なくなり、運転手と顔を合わせる事もなくなった。 「お母様がお亡くなりになった後、何度かアパートへ行ってみたのですが、いつの間にか引っ越していなくなってしまっていて……どこにいるのかも……」 沢田さんは悠里の様子が気になっていたようだった。父親には内緒で何度か様子を見に来てくれたらしい。 あの時はもう母がアルコール漬けになってしまっていて、もう何年も父は悠里のアパートには寄り付かなくなっていたのに。 母が亡くなると、すぐにアパートからは追い出されて、悠里はアルバイト先の居酒屋の2階で間借りして暮らすようになった。 捜してくれる人なんていないと思っていた。 悠里は頷くだけで言葉が出なかった。 この人に恨みはないが、あの時を思い出すのはつらかった。 「失礼します」 声がしたのでゆっくりと後ろを振り返ると、そこには梶さんがいた。そして飯田先生も。 ******************************************** 飯田先生と梶さん悠里と沢田さん。4人は喫茶店で向かい合いながら話をしていた。かれこれ1時間近く経つ。 「この3月で私は田井中のもとを去りました。定年退職です。あの男の元で30年勤めあげました」 沢田さんは、何度も仕事を辞めようと思っていたらしいが、子供が幼く奥さんが病気がちだったため仕方なく続けたそうだ。 「彼がやっている事は、けっして許されるものではなかったと私も思っていました」 彼はそう言って、重たい紙袋からノートを取り出した。それは業務日誌、30年分の乗車記録が書いてあるものだった。 何年、何月、何日、何時に○○宅、数時間後自宅まで送る。 その時付き合っていた愛人の名前連絡先住所。 家族構成、子供の有無など事細かに記してあった。 「私は退職しましたので、もうあの会社とは関係のない一人の人間になりました。これが何かの役に立てばと持ってきた次第です。悠里君、君がΩ専門法務士になったと新聞で知ったから、もしかしたらと思って」 彼が持ってきてくれた業務日誌は証拠として十分役に立つ。 自分の知らない情報まで確実に把握できる物だった。

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