51 / 61

第51話 沢田さん

悠里がヨーロッパを周遊している間に、かなり田中井との話し合いが進んでいたようだ。 飯田弁護士に『今後悠里は依頼人であり直接この件とは関わらないように』と強く説得された。 認知に関しては、悠里の考えでは田中井に愛人の子供全員を認知させたかった。 他の愛人の子供達、自分と半分血が繋がった兄弟たちは、皆、それよりも先に確実に金が入る方を選んだらしい。あんな父親の子供であること自体が恥だと思っている子供もいたようだ。 飯田弁護士はこの先愛人たちからの慰謝料請求もするので、田中井はかなり社会的にバッシングされるだろうといった。 明るみに出ないように向こうは必至だが、それは無理な話で、内々に処理するなんてことは不可能だと飯田弁護士は語った。 田中井にとって1億2億の金は、大したことないのかもしれない。そう考えると悔しいが、飯田弁護士はこの先彼が失脚するのは間違いない。時間はかかるが気長に待つしかないなと言った。 この件で一番の証拠を出してくれたのは運転手の沢田さんだった。悠里はお礼も兼ねて彼と会う約束をしていた。 金銭的に何か得な事があるわけでもないのに協力してくれた沢田さんは、一番の立役者だ。 待ち合わせに、彼が住んでいる最寄りの駅で悠里は待っていた。 久しぶりに会うので手土産を持参し、今後の方針を話しておこうと思った。 彼は自分の責任を感じていた。当時助けられなかった事を悔やんで、悠里に頭を下げてくれた。 自分の生活もあっただろう。 彼の責任では決してないのに、罪悪感を背負って生きてきたんだと思うと申し訳ないと思った。 退職するまで田中井の行動の記録を付けていてくれて感謝している。最大限活用して、少しでも何らかの形で彼に還元できればいいと思っていた。 横断歩道は青だった。 車通りは少ない交差点だった。 他に歩行者はいなかった。 彼の前を信号無視して突っ込んできた車は盗難車だった。 ブレーキを踏んでいなかった。 明らかに彼を狙った犯行だという事は目に見えていた。 車のぶつかる音と人々の悲鳴がまるでオーケストラの楽団が一気に同じ音を鳴らしたかのように、頭の中に反響した。 息ができなかった。一歩も前に進めないと思ったが、悠里は彼に駆け寄っていた。 あり得ない形で曲がってしまった大腿骨を必死に元に戻そうと、悠里は彼の身体の形を整えた。上半身を抱え上げ、名前を何度も呼んだ。 「沢田さん、さわださん……さわ……」 往来する車は一斉に停止していた。遠巻きに人々が集まってきた。皆一斉に携帯で救急車、か警察を呼んでいたのだろう。 「さわだ……さ……」 うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!! 彼の身体に顔を埋め泣き叫び、嗚咽を漏らす。誰かが悠里を引っ張って、なだめようとする。 「いやだあぁあ!はなして!!」 「離れて、大丈夫だから、落ち着いて」 誰だか分からない人達の手で押さえられる悠里。沢田さんの意識を確認しながら、スマホで電話をしている中年男性。女の人が心臓マッサージを始めた。 「はなせぇぇぇぇぇええ!!!」 音が何もしなくなる。誰かが何かを話している、何を言っているのか聞こえない。 沢田さんは死んだのか? 暴走した車はそのまま逃走し犯人は証拠を残しておらず、このままお蔵入りする交通事故となった。 悠里は目の前で、乗用車に跳ね飛ばされた沢田さんが道路に倒れ込む瞬間を見た。 駆け寄って体を抱え上げ悲鳴を上げる悠里が、通行人の目にはどう映っていたのだろう。 悲劇はこんなふうに幕を閉じるのか。 何故人の命を奪ってまで自分の保身を考えるんだろう。 腐ってる。田中井はクズだ。 彼の人生に無理やり入り込んでしまった自分の責任の重大だ。

ともだちにシェアしよう!