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第52話 裁判官

悠里の人生において、ナポリタンというものはかなり手ごわい相手である。 汁気があるわけではないので、皆けっこうナポリタンを甘く見ているが、気がつかない内にシャツにケチャップが飛んでいるという経験を、誰しも1度はしたことがあるだろう。 悠里は食堂でナポリタンの攻略に忙しかった。 福岡に来て半年が経とうとしていた。 福岡の修習地は人気があるようだった。弁護士は後輩の面倒見も良く、街も魅力的だからだ。 沢田さんが亡くなってから、自分がどうやって生きてきたのか記憶があやふやだった。魂が抜かれた抜け殻のような生活が続いた。 司法修習地が決定し、それに従い福岡へ来た。悠里は東京以外ならどこでもいいと思っていた。逃げだしたかった。 Ω専門法務士試験で必要な勉強はあくまで法律を解釈するための机上の勉強だった。これから司法修習で法律実務に関する知識と実技を学ばなければならない。約1年間の修習期間、47都道府県の県庁所在地にある裁判所でどこに行くかは本人は希望は出せても、決定することはできない。 もうこれ以上田中井によって罪もない人達の命が危険にさらされることが耐えられなかった。 自分にすべて降りかかるのならまだしも、他の誰かが命を落とさなくてはならないなんて。 その責任はすべて自分にある。 田中井の件は引き続き飯田弁護士に任せる事になった。 それは最初から決まっていたことだったが、自分も主になり頑張って戦おうと思っていた矢先、あんな事件が起こってしまった。 沢田さんのひき逃げ犯は逮捕されていない。どう考えても田中井の仕業以外考えられない。 自分の行動記録を所持している彼を消したんだ。 梶さんはとにかく、今すぐになんとかできることではない、時間がかかるのだから、警察と飯田弁護士に任せるべきだと言った。悠里はいったんこの件から離れろと。 悠里の身の安全も考えてそう言ってくれたのだろう。 「おお、今日はナポリタンか」 裁判官の大橋さんが悠里に話しかけてきた。 Ωの悠里はここへ来た時から何かと噂の的になっていた。 けれど、人との密なコミュニケーションを取ろうとしない悠里を、同期達は変わった奴だと認定し、仲よくしようという気が削がれ離れて行った。 大橋裁判官はそれでも悠里にしつこく話しかけてきた。 修習生は、公務員と同じ扱いなので、定時で出勤の定時上がりだ。いわゆる9時から17時まで。 大橋さんは悠里を毎回食事に誘う。常に断られるにもかかわらず。 「今日はどう?飲みに行く?明日休みだ」 「すみません」 「ここ座ってもいい?」 「どうぞ」 「京都にいた頃、職場の近くに何十年も前からやっているような喫茶店があってね」 「はぁ……」 「そこでナポリタンを食べたんだ。コーヒーはサイフォンでいれてくれるんだ。ここだけの話、サイフォンでいれたコーヒーは不味いんだけど、そこのコーヒーは群を抜いて不味かった」 「はぁ……」 「まぁ、ナポリタンに話を戻すけど、ナポリタンを作ってくれてるおばさんが、その日なぜかケチャップを切らしていたことを忘れていたみたいで、注文した僕に『できません』と言えばいいものを、言ってくれなかった。出てきたスパゲティーは赤かったからてっきり僕はナポリタンだと思うじゃない?食べたらソース味だった。タバスコがふってあってね。スパゲティーソース焼きそば激辛みたいなもの」 「……」 「それで、おばさんにこれは何ですか?と尋ねたらナポリタンだって言うんだよ。うちのナポリタンはこれなんだって言いきる。そこで学んだことは、人は過ちを認めない。という事だ」 「……はい」 「僕はね、そのナポリタンを食べてから何だか癖になって、自分で家に帰ってソース味のナポリタンを作って食べるようになった。美味かったんだよソースナポリタン激辛が。裁判官は独立して判断を行うことができる、誘惑に屈しないで自己の内心の良識と道徳観に従うとすれば、あれはナポリタンではないんだがナポリタンだったんだ」 「え……っと」 「何が言いたいかというと、違うだろうとか嫌だなとか思ったとしても、試してみる価値はあるんだよね。という訳で、今晩飲みに行ってみる?」 「……」 悠里はなんだかよく分からないまま、大橋裁判官と飲みに行く約束をしてしまった。 その夜、悠里は布団に入りながらナポリタンのことを考えた。 裁判官が言っていた話はいったいどういう意味だったんだろう。 答えの出ないことは考えない事にして、まぶたを閉じた。

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