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第53話 判事

悠里はまんまと大橋裁判官の術中にはまった。 自分の生い立ちから今まで経験した事。今回の田中井の事、沢田さんの死、全てを話すことになった。 そして自分が負ってしまった責任と傷。 大橋裁判官は何度も悠里を飲みに誘って、少しずつ話を聞いてくれた。 梶さんも飯田さんも自分の周りの人たちはみな悠里をこわれものように扱った。今はそっとしておくしかないと、見守る体制を整えてくれたのだ。そういう優しさ、思いやりのある気持ちも汲み取ることができず、自分の中には空虚という空っぽの感情しかなかった。 大橋裁判官は中身を少しずつ詰め込んでいってくれるようにいろんな話をしてくれた。 そういった中で本来自分がΩ専門法務士になろうと決めた理由を見つめなおした。 自分と同じように、バース性によって弱い立場になった人たちを、救いたいという強い信念や覚悟をもってここまで来たのではなかったか。 自分はまだ何もしていないじゃないか。 勇気を持たなければならない。悠里はこのままでは駄目だと自分を奮い立たせた。 それからというもの、悠里は今まで以上に修習先で必死に学んだ。裁判に関する書類の作成を練習する「起案」を重点的に書きまくった。裁判への立ち会い、弁護等の実務をこなし、先輩たちとのコミュニケーションも取るよう心がけた。 歓迎イベントで飲み会があったり、冒頭合宿という1泊2日の研修があったりしたのだが、記憶にないくらい無言で過ごしてしまったため、友達が全くいなかった。 皆は、Ωである悠里に興味があったようだが、あまりの反応の薄さに変った子だなというイメージしか持たなかったという。 仲の良い人たちが増えると、より多くの情報を得ることができた。沢山の弁護士や、Ω専門法務士の先生方と話すことができ、事件処理のいろはから、マインドセット、マーケティング、収益化の仕方なども学ぶことができた。 「夜の修習なるものがあるんだよ」 「え……っと」 悠里は思わず言葉に詰まってしまった。 「夜の修習なんてちょっと卑猥イメージがわく名前だよね」 大橋裁判官は悠里に笑いながら説明した。本当に修習するだけだから、まぁ気にしなくていい。君はいかなくても良いんじゃない?となおも笑いながら言ったので、少しムッとしてしまった。 大橋裁判官は40歳くらいだろうか、働き盛りの良いお父さんのように見える。 年齢より若く見える悠里を子供のように感じるのは仕方がない事なのかもしれない。 そんな毎日を過ごしているある日、裁判の傍聴のへ行くように大橋裁判官から言われた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 中学3年生だったΩの娘に、実の母が売春をさせていたという事件だった。娘さんは発情期だった。 母親は法廷で、反省の弁を述べた。 「夫とともに自分の人生をやり直したいです」 娘にひどい事をしたにもかかわらず、自分は夫とやり直したいんだ。 将来を語る事は悪くはないけど、被害者の娘さんの事を考えていない母親に、当時の自分の母の姿が重なった。 「娘さんの存在を抜きにして将来を語るんですね」 判事はそう言った。 母親は焦ったようだ。 「娘はΩなんです。普通の人とは違う。自分からそうやって男を誘ってしまう。そんな子を私達にどうしろというんですか」 何を言っているんだろうこの母親は、悠里は裁判中にもかかわらず立ち上がって意見しそうになった。 「娘さんに対してできることがあるでしょう! あんたたちの遊ぶための金を稼ぐために、売春させられていたんだよ!Ωだからという事は何の言い訳にもならない。あんたは人間以下だ!」 判事が怒鳴った。 その声に裁判を傍聴していた人たちが皆。驚いたようにピシッと姿勢を正した。 被害者のことに配慮しない言動がみられたりすると、この判事は声を張り上げて叱る人らしい。 被害者を守るため、被告人の覚醒や立ち直りを促す役割を演じているかのようだった。 法廷で裁きを受ける体験そのものが、犯罪からの立ち直りを促す力を、裁判の「感銘力」と呼ぶ。 「娘さんの良いところを3つ言いなさい」 判事は母親にそう言った。 母親はそのままの姿勢で涙ぐみ、じっと動かないまま肩を震わせた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 裁判の後、大橋裁判官が先ほどの判事に会わせてくれるというので、悠里はついて行った。 こんな機会はめったにないかもしれない。 けれど悠里は、先ほどの衝撃的な裁判の興奮がまだ覚めていなかった。 「Ω専門法務士試験に合格したΩの子って、この子?」 判事が大橋裁判官に尋ねた。 判事の部屋へ通されて、先ほど判決を言い渡した判事を前にして、悠里の目から涙が溢れだした。 何故だか分からないが、次から次へとどんどん流れだしてくる。恥ずかしい。けど止められない。 スーツの腕で両目を覆うように顔を隠す。挨拶をしなければいけないのに、言葉が出なかった。 大橋裁判官があれまと驚いたように苦笑している様子がうかがえたが、顔が上げられなかった。 一言も発さないまま悠里は恥ずかしながら部屋を出る事となった。 判事は悠里がΩであること、先ほどの裁判を傍聴していたことで、何かを察してくれたのかもしれない。 「どうぞ君のΩ専門法務士の権限を行使し、社会に役立ててください。どうぞ胸を張って、いい人生を生きてください」 判事はそう言葉をかけて、悠里を部屋から送り出してくれた。

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