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第3話

 知識が増えていく分、頭の重さが増していくように感じる。  ポストに入っていたチラシの裏に数式を綴っていく。連立方程式や微分積分。数学は答えが明確に出るから好きだ。その反面、現国のように登場人物の心情を問われると苦手だった。昔から人の機微には疎い。  使い古された教科書には、所々落書きがあった。アニメキャラだったり、パラパラ漫画だったり、持ち主のその時好きだったものだろう。  この教科書の持ち主は、授業に怠慢な態度だとわかる。誰かに教えてもらうという機会は、大人になるにつれて少なくなる。そんな貴重な時間を、こんな落書きに興じていたのか。  できるものなら、代わってもらいたかった、と鉛筆を握る指に力が入る。  それでも、無償で貰えた教科書だ。どんなに汚かろうと、落書きされていろうと、無駄にしたら勿体ない。頭の中の僅かな隙間にも、数式を埋め込んだ。  「ニュースです。政治家の加藤が、クローン法に違反して逮捕されました」  はたと顔を上げ、点けっぱなしのテレビに目を向けた。神妙な顔をして、一語一句を読み上げるアナウンサーと目が合う。  「移植用として自分のクローンを作り、隠れて育成していたとのことです」  「……育成って動物かよ」  逮捕された政治家とクローン人間の写真が流れた。太い眉に、奥二重、特徴的な上を向いた鼻の容姿の二人は、年は違えど顔の造りは瓜二つだ。  画面が切り替わり、大勢の記者がクローンの方に詰め寄る。カメラのフラッシュが閃き、矢継ぎ早の質問に困惑の表情を浮かべていた。  クローンにしてみれば、いい迷惑だ。きっと今まで自分のオリジナルが生きているなど、露ほどにも思っていなかっただろう。泣き出す寸前の顔は、潮見の胸を痛めさせる。  表面上では、クローンにも人権はあると謳っているのに、これではプライバシーもなにもない。まるで動物以下の扱いだ。  一九九六年、イギリスで初めてクローン羊が誕生した。それを皮切りに世界中でクローン技術が研究され、一九九八年、日本でクローン牛が誕生した。さらに研究が進み、クローン人間を作ることも可能になり、あっという間に世界中に広まった。  けれどその研究の成果とは裏腹に、倫理的な問題が浮かび上がった。バチカンは「人間は人間らしく生まれる権利を持っている。世界の国々がクローン人間を禁止する法律を制定すべき」と主張し、フランスもその意見に賛同した。  他にも反対する国は多く、宗教や倫理の観点から争いが生まれたが、クローン人間に賛成の国が圧倒的に多かった。  国家安全保障会議の元、万国共通のクローン法というものが設けられ、クローンを支持する国はこの法律を硬く護った。日本もその国の一つで、今回のようにクローン法を違反すれば逮捕される。  クローン法は生存している人間のクローンを作ることを禁じていたり、クローンの差別化をなくすことをも制定されている。外面的には護られているように装っているが、中を覗けば黒く淀んでいる。  クローン人間への差別は消えない。自分たちと違うものを排除したくなるのは、人間の性だ。けれど誰も彼もを疑い続けるにも疲弊し、不安を持ちながらも生活を送る。  クローンも自分たちは異端者だと理解している上で、公言しないようにしている。だがいつばれるかもしれないという恐怖は、一生纏わりつく。  また権力を持っている者――政治家やヤクザなどは、自分のクローンを造り、社会の目を盗み育てている。  自分と同じ細胞や遺伝子があれば、移植をせざるおえない病に罹っても、ドナーを探す必要はない。病気になっても替えがいるので、オリジナルは永遠の命を手に入れることができる。  だが本来、クローン技術が広まったのは人を蘇らせるためだ。死産になった赤ちゃんや、不慮の事故でなくなった家族や恋人の髪や歯ブラシなど生前使っていたものから細胞を取り出し、代理母の卵子と結合し妊娠させる。  姿かたちが生前とほぼ同じ状態で新たに生まれてくるので、人々は喜んだ。死んでも蘇らせることができるので、世界は死というものに鈍くなっていった。  とても勉強する気分になれず、頭を冷やそうとコーヒーを口に運んだ。すでに冷め切っているコーヒーは、苦さが増し口触りもよくない。ないよりましだ、と一気に飲み干し、喉を潤す。  「俺たちの意志なんてお構いなしだ」  クローンを造り、育てたくせに差別をされる社会。自分たちはこんな世界を望んでいたわけではないのに、事あるごとにクローンのせいにされる。  ドナーとして造られたクローンなど、人間以下の扱いを受ける。世界の理が歪んでいくともしらず、オリジナルたちはのうのうと生きている。そんな世の中など消えてなくなればいい。  腹の底から怒りが湧き上がってくる。だがそれを向ける相手はもういない。仕方がなくテレビを睨みつけても、アナウンサーは淡々とニュースを読み上げていた。

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