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第8話

 相馬家に通うようになって、半月が過ぎた。  冬の寒さはさらに深まり、何枚着込んでも繊維の隙間から冷気が肌を刺す。シャツ一枚の圭は、もっと寒いだろう。  服を買い与える訳にはいかず、ホッカイロを余分に持っていくことが常になった。それを渡すと、強張っていた圭の表情がいくらか安らいだものに変わり、自分の中にも温かいものが流れる。  圭とはぎこちないながらも、言葉のキャッチボールを続けていた。  「好きな色はあるか」「ピザ以外で何が食べたい」「夜から雨が降るそうだ」とあたりさわりのないもの。圭は一言発したらぐったり疲れたようにしていたが、「赤」「お米」「雨って冷たい?」と次第に言葉を増やしていった。  鈴が転がるような心地よい声音は、耳に優しい。相馬家は住宅街の中にぽつんと建てられているせいか、車の騒音も人の声もほとんどない。圭と二人だけ世界から切り離されたような空間が心地いい。  いつからか会うのが楽しみになってきていた。  バイクのエンジンを切ると、圭は戸口から顔を覗かせた。まるで潮見を待っていたようなタイミングに苦笑を漏らす。この寒空のした膝を抱え、上がり框に座っている圭を容易に想像できたせいだ。  「ピザ持ってきたぞ」  圭は口角を最大限にあげ、溢れんばかりの笑顔を向けた。  「しお!」  ピザを渡そうと腕を伸ばしたが、逆に引っ張られてしまい玄関に腰を下ろした。上がり框に飲み物が二つ用意されている。今日も長話をしていけということなのだろう。  頼られていることは嬉しいが、複雑な想いもあった。  今は仕事中なのだ。  以前、「仕事中だからゆっくりできない」と言うと圭の顔は途端に暗くなった。肩を落とし項垂れている姿は良心を痛めつけるのに十分だ。  そんな表情をみせられるくらいなら、奥田の小言も受け入れる覚悟でいくしかない。  「これ、いつものやつ」  温めておいたホッカイロを渡すと、圭はまた笑った。最初に会ったときから表情が増えてきた。  「ありがとう」  まるで宝物のように両手で包み、胸に当てた。その腕には真新しい痣がみえたが、潮見はぐっと言葉を呑みこむ。  潮見が最初に来た頃よりも痣が増えている気がするが、どうしても痣のことは訊ねられなかった。そのことを訊けば圭は傷つくに決まっている。  泣き出すのを堪えている顔をみせられると、胸が締め付けられた。  だがこのままでいいはずがない。そろそろ踏み込んだ話をしないともう二度と会えなくなってしまうかもしれないと予感めいたものがあった。  「しお、早くお話しして」  潮見の気持ちなどお構いなしに、大きな瞳が見上げている。茶色と黒と緑が混ざった中に、自分の困惑した顔が写っている。  「その呼び方やめないか。俺は潮見だ」  「だってしおの方が呼びやすい」  「そうかもしれないが」  ペットのような愛称は、知的な潮見には不釣り合いだ。面長に鋭い目つきな潮見に、愛称とのギャップが甚だしい。奥田に聞かれたら、茶化されるに決まっている。  何度訂正しても圭は頑なに「しお」と呼ぶ。  懲りないところをみると、意外と頑固なのかもしれない。  ふと顔を上げると下駄箱に置いてある写真立てが目に入った。ここの家主と圭の元になった人間。仲睦まじく二人が制服姿で並んでいる。  「ケイだよ」  圭の表情がすっと消えていく。細められた双眸が写真立てを眺めているが、その奥に秘めているものがみえない。  「僕の源になった人。秋人の愛している人」  「じゃあおまえは自分がクローンだと知っているのか?」  「知ってる」  吐き捨てるような言葉に何も返せなかった。  家主の秋人は愛する人を失って圭を造った。  それなのに暴力を振るい圭を傷つけている。  血が出せない圭の心は痛いと泣き叫んでいるのではないか。  「秋人はね、怒るの。僕がケイになりきれないと、殴ったり、蹴ったりする。でもそのあと、ごめんねって泣くの」  痛みを堪えるように、眉根に皺が刻まれる。  伏せられた瞳になにを浮かべているのか。  腕や足に残る痣に目を向ける。いくつもの赤紫の点が白い肌に異様な模様をつくり、その異常さを物語る。  圭は秋人に殴られ続け、抵抗もできないのだろう。  人間にとって自由とは空気のように必要不可欠だ。その自由が奪われ日常的に暴力を振るわれていたら、希望を持てなくなる。つまり「逃げること」に無気力になるのだ。  圭のように生まれたときからここにいるなら、「逃げること」の答えも見出せないかもしれない。  「悪い。辛いことを話させた」  「どうして謝るの? 僕は平気だよ。もう慣れちゃった」  その言葉に何も返せなかった。暴力を振るわれることに慣れるはずがない。慣れないと生きていけないのだ。自我を抑え込まないとまた暴力が重ねられる。不毛な連鎖の中に圭は取り残されている。  圭は昔の俺たちみたいだ。  置かれた環境が異常でも、最初から過ごせば日常になる。それが自分たちにとって、普通のことだから。圭を取り巻くものが憎たらしい。どうして閉じ込めるのか、どうして自由を奪うのか、誰にそんな権利があるというのだ。  潮見には何も手出しできない現状に腹が立って仕方がない。  「しおに見せたいものがあるの」  中に入って、と促される。圭はまだ一度も踏み込んだことのない室内へ潮見を引っ張った。

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