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第10話

 真っ直ぐ歩くことも困難で、クラゲのように右へ左へと身体が揺れる。疲労感と緊張感が潮見の体力を奪い、歩くのを億劫にさせた。  それでも持ち堪えて歩ていると、橙色の提灯が目の端を捕らえた。いつも宅配に行く小さな小料理屋だ。老夫婦が営んでおり、その人柄の良さはよく知っている。  一人でいると、嫌なことまで考えだしそうだ。  潮見は吸い寄せられるように暖簾を潜ると、女将がの声に安堵の息が漏れる。  「いらっしゃい」  「こんばんは」  「うちに来るなんて初めてじゃない?」  「たまにはお世話になろうと思って」  「ふふ。じゃあサービスしちゃおうかしら」  好きなところ座って、と言うので店内を見回すとカウンター席がちらほらと空いていた。一番奥に腰を落ち着ける。  狭い店内のせいで、客同士の距離が近い。  近所の人たちの宴会場として使われることが多いのだろう。テーブルを挟んだ反対側の人とも、楽しそうに談笑していた。  酒の力も相まって店内は騒がしかったが、その喧噪さも潮見にはありがたい。  『ケイにはなれなかった』  沼の底から這い出たような重たい言葉だった。姿かたちは同じでも、秋人の求めているケイにはなれない、なれるはずがない。  クローンと一括りに言っても、母体や生活環境が違えば性格も変わってくる。容姿も、性格も、同じに生まれる訳がない。異常なまでに家の中に閉じ込め、日常的に暴力を振るっていたら、内面が変化するのは必然ともいえる。  そんなことも秋人にはわからないのか。  「なに難しい顔をしてるのよ」  カウンター越しに女将が笑い皺を滲ませている。  「そんな顔してました?」  「してたしてた。イケメンが台無しよ」  そんな小難しい顔をしているつもりはないけど。  「潮見くんっていつも何か考えてるよね。意識がどこかに飛んでるの、すぐわかるもの」  「……明日は晴れるかなって」  「嘘。すぐわかるんですからね。だてに六十年も生きてないんだから」  女将はふふ、と笑って、枝豆の入った小皿を手渡した。僅かに触れた指先は、苦労を重ねてきた皺と赤切れが、触れてはいけない領域のように感じた。  「あ、この前電球変えてくれてありがとね。お陰でトイレのドアを開けっ放しにしなくて済んだわ」  「あんなんで良ければいつでもやります」  「でも配達中だったでしょ?帰るの遅くなっちゃって店長さんに怒られなかった?」  「いえ、特に何も言われてません」  店に戻ると奥田はにこにこと笑っていた。次も頑張ってね、と肩を叩かれるだけで遅くなることについては触れてこない。  平日の昼間を主に働いているので、宅配先は高齢者が多い。そのせいか、電球を取り替えて欲しいや、庭の植木に水をあげて欲しい、と頼まれることが多々あった。  それを苦だと思わないし、断る理由も思い浮かばない。そのたびに、お客さんが笑顔になってお礼を言われると嬉しかった。こんな自分でも、誰かの役に立つことができるのだと、誇らしく思えた。  だが、給料以外のことをするなんてあり得ない、と同僚には揶揄された。それが莫迦にされているのだとわからないほど、子どもではない。  じゃあお年寄りに電球変えさせたり、足が悪いのに水やれって言えるのかよ。  内心でそう詰りながらも、そうですね、と適当に返す。相手の意見に相槌を打ってほとぼりが冷めるのを待つ。軋轢を避けるために身につけた処世術だ。  「楽しそうな話?」  隣に居合わせた男がぐいと顔を近づけ、潮見と女将に割って入ってきた。図々しいというより、単に興味が湧いたという態度に驚きはしたが、嫌な気はしない。  「聞いてよやまちゃん。この子ったらね」  「……優一朗?」  「もしかして山野辺?」  「あらら。知り合いなの?」  三者三様の表情でお互いの顔をみやる。驚いているのと、喜んでいるのと、楽しんでいるの三つ。  「久しぶりだな!」  変わらない大声に耳を塞ぐと大袈裟だな、と背中を叩かれた。じんとした痛みが懐かしい。  「だから痛いよ、おまえの平手は」  「はは。それは失敬」  無邪気な顔をみせられると、変わってないと安心できた。悪意のないその笑みにどれだけ救われたか。  太い眉の下に凛々しい目つき、それに角張った頬に笑窪は昔のままだ。けれど活発な少年だった山野辺が、今は落ち着いた雰囲気を纏わせている。  厚ぼったい唇を開き、山野辺は続けた。  「この辺りに住んでるのか?」  「歩いて十分くらいかな」  「じゃあご近所さんだな。今まで気付かなかったなんて嘘みたいだ」  それからお互いの近況報告をした。仕事は何をしているとか、どんな人と付き合ったとか。いつの間にか女将の姿はなくなり、水入らずに会話ができた。  けれど一番触れるべき箇所をお互いわざと避けている。ただの世間話は次第に失速し、グラスを舐める回数が多くなっていった。  ふと背後の席が騒がしくなってきた。アルコールも効いて暴れているのだろう、と流していたらぴしゃりとした怒声が耳を劈く。  「さっさと出ていけ! クローンに飲ませる酒なんて置いてねえよ!」  店内に響き渡る怒声に後ろを振り返る。  茹でたように顔を真っ赤にさせた主人が、一人の男性と揉み合いをしていた。水を打ったように店内は静かになる。  「早く出ていけ!」  眦を吊り上げて鬼のような形相の主人に観念したのか、男はさっさと暖簾を潜り外へと出ていった。  「誰か塩持って来い!」  カウンターから女将が塩の入った袋を手渡すと、それを逆さまにして入り口にばら撒いた。コンクリートに薄い雪が積もっているみたいにグレーがかっている。  「たっく気色悪いもんみちまった。さあ仕切り直しだ」  主人が合図をすると、何事もなかったように宴が再開される。目を丸くして固まっているのは潮見と山野辺だけだった。  「ごめんなさいね。あの人、クローンがだめなの」  女将は申し訳なさそうに眉根を寄せる。その言葉に眩暈を覚えた。  心臓が皮膚を破いて飛び出してしまいそうだ。もしかしたらあれは自分になるはずだったかもしれない、と思うと平静ではいられない。  山野辺は何を考えているのか、表情をなくし、ぼんやりと天井の隅を見上げていた。  クローンの差別を目の当たりにしたことは何度もある。汚いものをみるような周りの視線。鬼の形相の主人。それが現実なのだ。  クローン法が適用されて二十年になる。それだけの時間がかかっても人の考えは変わらないし、覆すことは難しい。この料理屋で起こったことが、社会の縮図だ。  「俺さ、今度結婚するんだよね」  聞き逃してしまいそうな小さな告白に、反応するのに時間がかかった。  「おめでとう。彼女……奥さんは全部知ってるのか?」  俺たちがクローンだということ、と小声で付け加えると力強く頷いた。  「付き合ってるとき黙ってたんだ。明日言わなきゃ、明後日言わなきゃってずるずるしてたら、結婚したいって言われて。そしたら腹くくるしかないっしょ? 全部ぶちまけたら泣かれた」  グラスの縁を指で撫で、懐かしむようなやさしい声で山野辺は続ける。  「『あなたの名前は山野辺新太でしょ。私が愛したのはあなたよ』って。見縊らないでって怒って泣いてた。それをみてこいつしかいないと思えたんだ」  「……生きててよかったな」  「優一朗のお陰だよ」  山野辺がグラスを掲げたので、潮見もグラスを手に取りかつんと合わせた。お互いの生存と結婚への乾杯。  「お前があの時、逃げ出してくれたお陰で俺は生きてる」  「でも、他のみんなは死んだ」  「それはもうどうすることもできない」  過去を変えることはできない。施設で過ごした日々も、あの時のコンソメの匂いも、ケイの事故も。  振り返ることも許されず背負って歩いていくしかない。  残された者の宿命だ。  「俺たちが生きる意味って何だと思う?」  「代用品、だろ」  「それは生まれた理由だ。生きる理由とは、またちょっと違う」  お前にはまだ早かったかな、と揶揄われて意地になって答えを導きだそうとした。だがいくら考えても、答えが一向に出てこない。  「だからお前は頭で考え過ぎなんだよ」  デコピンを喰らい痛さで顔を歪ませた。頭蓋骨が鐘で突いたようにごうごうと響く。  だから力の加減しろって。  「馬鹿力」  「頭で考えたってどうにもならねえよ。ここだよ、ここ」  どんと厚い胸板を拳で叩いた。隆々たる筋肉は何のダメージも受けず、凛と反り返っている。  その真っ直ぐさは昔と変わらず眩しい。

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