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scene 2. 箱の中

 どんなときだって腹は減る。テディは出の悪い温いシャワーを浴びたあと、スウェットスーツの上からニットカーディガンを羽織り、電気ケトルで湯を沸かした。インスタントのコーヒーとミルクでカフェオレを淹れ、フレンチサラダとフライドポテトを並べて、もう冷めてしまったチキンサンドウィッチに齧りつく。  ルカとこんなふうに喧嘩をするのはもう何度めかわからない。少なくとも両手に余るほどは繰り返してきたことだった。テディが他の男とキスをしたり、セックスをしていたのがばれてルカが怒る。当然のことだった。  テディはそのたびに本気でもう二度とこんなことはしないと誓うのだが、気がつくと何故か同じことをしてしまっていた。テディのことがわからなくて途方に暮れているのは、実は彼自身のほうだった――男に性的な目を向けられ、また襲われるのではと恐れて仕事を辞めたというのに、どうして自分から躰を売ることは容易にできてしまうのか。  そして、次に考えるのは、こんな自分にルカの傍にいる資格があるのか、ということと、自分はルカと離れて生きていけるのか、ルカにとってはどっちがいいのだろうか、ということだった。だが――  『穢らわしい、穢らわしい……っ!』  『もうだめだ、無理だ! もう金輪際、今度こそ――』  『俺たちはずっと一緒だ。俺はおまえと離れたりなんかしない。離さない』  そのとき思ったままを率直に口にするルカの言葉が、いつまで経っても消えないまま躰中を巡ってテディを苛み、しかし突き放さず繋ぎとめる。  こつこつと足音が聞こえた気がしてドアのほうを向く。この部屋に誰かが訪ねてくることなど一度もない。ルカが帰ってきたのか――そう思って、まさかこんなに早くはないよなと自嘲気味に笑ったとき、かちゃりと鍵の音がしてドアが開いた。 「ルカ?」  入ってきたのは本当にルカだった。  暢気に食事をしていたと思われるのが後ろめたくて、テディは慌てて食べていたチキンサンドを包み紙の上に置いた。付いていたサーヴィエットで口許を拭い、顔をあげると、ルカが両手にパプリカの段ボール箱を抱えていることに気がついた。  ルカは黙ったまま部屋の奥まで進み、その箱をそっと床の上に下ろした。そしてその場に坐りこみ、箱を開け、困った表情でテディを見た。 「……みつけちまった。放っとけなかった……どうしよう」 「え?」  ミーと、か細い声が聞こえた。驚いてテディもその前で膝をつき、箱の中を覗きこんだ。  中から小さな仔猫が二匹、寄り添ってこっちを見上げていた。  もう目は見えているようだが、ミャーと大きく開いた口のなかにまだ歯は見当たらない。生まれたばかりというほどではなさそうだが、まだまだ母親を必要としている赤ちゃん猫のようだった。 「どうしたの、この仔猫……」 「ここを出てしばらく歩いてたら、スーパーマーケットのシャッターの前にこの箱が置いてあったんだ。ただの野菜の箱だし別に気にもしなかったんだけど、傍を通るとき声が聞こえてさ。まさかと思って開けてみたらこれだよ」 「これだよ、って……いったいどうするつもり? 飼うの?」 「知るかよ、飼うかどうするかなんて考えてないよ……ただ、まだこんなに寒いのにあのまま放っといたら死ぬかもしれないだろ。なんだか一匹元気がなさそうだったしさ。とりあえず連れて帰って、それから考えようと思ったんだよ」  テディは箱の中で寄り添う仔猫たちを見つめた。確かに、一匹は元気よくミャーミャーと鳴いているが、もう一匹のほうはぶるぶる震えながら這いつくばっていて、健康状態がよくなさそうにも見える。 「……お腹がすいてるのかな」 「ミルクあったよな、やってみよう」  ルカはそう云って立ちあがり、キッチンとも呼べない小さなスペースにある冷蔵庫を開け、ミルクのパックを取りだした。――が、途惑ったようにそのまま動きを止め、またテディを見た。 「どうやってやりゃいいんだ?」 「俺に訊く? ルカんち、猫いっぱいいたじゃない」 「いたって仔猫の面倒なんかみたことないよ」 「うーん、小皿に入れると嘗めるかも……。でもちょっと待って。寒いのに冷たいままじゃだめなんじゃない? それに、牛乳なんて猫にやっても大丈夫なの?」  それを聞いてルカはうーんと考えた。確かにブリストルの家には猫が何匹もいて、仔猫が産まれたことも一度だけあった。が、仔猫の世話は周りにいる猫たちがきちんとしていたし、ある程度大きくなると母猫から離し、母と叔母がどこかへやってしまったので、ルカは特にかまったこともない。 「……少しお湯で薄めよう。あと、砂糖入れるといいんじゃないか? 点滴みたいな感じで」と云った。テディは心配そうに首を傾げる。 「いいのかなあ、それで」 「餓死させるよりはましだろ、やってみよう」  ルカはそう云うと、入居当時からここにあったコーヒーカップの皿をさっと洗った。そして砂糖をほんの少しとお湯とミルクを混ぜたものを入れた皿を床に置き、箱から仔猫たちを出してやる。  元気なほうの仔猫はミャーミャーと鳴きながら皿のほうへ寄っていき、前脚を片方ミルクのなかに突っこんだ。 「あーあ」 「タオルとってくるよ」  それでも匂いがわかったのか、顔を皿に近づけぴちゃっと鼻先に付いたミルクを嘗めるのを見て、ルカはほっとした。  だが、もう一匹のほうは置いた場所に蹲ったまま動こうとしなかった。指先にミルクをつけて口許に持っていってやっても、嘗めようともしない。 「まだ哺乳瓶が要るのかもな。動物病院とか連れていったほうがいいかな」 「でも今日、土曜日だよ」  元気なほうもミルクを欲しがっている様子はあるが、まだ皿からだと上手く飲めないようだった。それを見て、テディは云った。 「もう少し待って、店が開く時間になったら俺、いろいろ買ってくるよ。仔猫用のミルクとか哺乳瓶とか、大きなドラッグストアなら売ってるだろうし」 「じゃあ一緒に――」 「だめだよ。仔猫だけ置いて放っておくわけにいかないだろ……。どうせいろいろ買いたかったものもあるし、あとで俺行ってくる」 「わかった。……テディ」 「うん?」  ルカはじっとテディを見つめた。 「さっきは俺も云い過ぎたよ」  ルカにそんなふうに謝られ、テディは少し驚き、しおらしい態度で俯いた。 「……悪いのは俺のほうだし。ちゃんとわかってるんだよ、ルカが怒るのは当然だって……でも」 「ああもう、でもは云いっこなし。要は早く仕事がみつかればいいんだ。そうだろ?」 「……うん」  しゅんと俯いたままのテディに手を伸ばし、ルカはこつんと額に額を合わせ背中に手をまわした。顔をあげたテディの目を覗きこみ、ゆっくり顔を傾け口吻ける。 「……なんか食ってた?」 「あ、ごめん……さっきのあの、チキンサンド……」  ああ、とルカはテーブルの上を見やり「そういや腹減ったな」と、胃の辺りをさすった。 「でもあれ食べるの……嫌なんだよね、ルカ……」 「……いや、もらうよ」  仔猫たちを箱の中に戻し、ふたりは早めの朝食を摂った。  食べているあいだ、ふたりはまったく口を利かなかった――いつもなら食事中、たわいも無い話をするルカが、ずっと無言で食べていたからだ。やっぱりまだ怒っているのだろうかと、テディが心配そうに顔色を窺う。  ルカはそれに気づいてテディの目を見たまま咀嚼し、コーヒーを一口飲んだ。 「やっぱり旨くないよ。でもぜんぶ食うけどな」  それを聞いてテディは、自分が思っていたよりもルカはちゃんと自分の感じていたことをわかっていたのかなと、ほっとするような恥ずかしいような、複雑な思いに駆られたのだった。

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