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scene 3. 愛情

「――えっと、『一回分の量を付属のスプーンで量って哺乳瓶に入れ、メモリまで入れたお湯でよく溶かしたあと、38℃程度まで冷まします』」 「えぇ? 38℃ってどのくらいだよ、そんなのどうやって測りゃいいんだ」 「たぶんシャワーの温度がちょうどそのくらいだよ、体温より少し温かいくらいだろ。で、『ミルクが気管に入らないよう頭を少し上に向かせ、哺乳瓶は四十五度くらいの角度で』――」 「待て待て待て。まだ冷ましてる……って、こんなのいつ冷めるんだよ」 「まだだいぶ熱い? それなら流水で――」 「そっか。くそ、俺なんかいっぱいいっぱいで頭働いてないな」  普段、散らかし魔のテディが当てにできず、耐えられなくなった頃に部屋の整理整頓と掃除をする以外はまったく家事をしたがらないルカが、キッチンに立っておろおろしている様子はなかなか見物だった。  手の甲にミルクを垂らして「こんなもんかな」と小さな哺乳瓶を片手に仔猫の箱の傍らに行くと、腰を落ち着け箱から一匹出して口許にニプルを近づける。すると仔猫はばたばたと前脚をもがくように動かしながらそれに齧りつき、ちゅっちゅっと飲み始めた。 「飲んだ……!」  思わずふたりして笑顔で顔を見合わせる。仔猫は哺乳瓶を持っているルカの手に小さな前脚をしっかり伸ばし、ものすごい勢いでミルクを飲んだ。  飲み終わってお腹がぽっこりと出ているのを見て、テディは手にしていた冊子をまた読み始めた。 「あ、『赤ちゃん猫は自分で排泄ができないので、ぬるま湯で軽く絞ったガーゼや脱脂綿などで刺激し、排泄を促してあげる必要が』――」 「ああ、そっちはおまえ頼む。俺もう一匹のほうにミルクやらなきゃ」 「わかった。ふふっ……ルカ、なんかおかあさんみたい」 「よせよ、じゃあおまえはおとうさんかよ? なんでベッドでの役割と逆になってんだ」 「それは関係ないだろ。なに云ってんだよもう」  あまり元気のなかったほうの仔猫も、なんとかニプルに吸いつかせるとちゃんとミルクを飲み始めた。先にやった元気なほうほどたくさんは飲まなかったが、これでもう死んでしまったりすることはないだろうと、ルカはほっとした。  テディが排泄のほうの世話をしているあいだに、ルカは箱の中に古雑誌とタオルを敷いた。そして、もっと暖かいなにかがないかと部屋のなかを見まわし、前に洗濯して縮んでしまったセーターをみつけ、それを隅に入れた。 「いい寝床になったじゃない。あったかそう」  テディが仔猫たちを箱の中に戻すと、ルカはやれやれと自分の手を見た。 「ひっかき傷だらけだ。こんなに小さくてもやっぱり猫なんだな」  仔猫たちがセーターに寄り添い眠そうな顔をしているのを見て、ルカは袖の部分をふわりと掛けてやった。仔猫のほうも母猫の尻尾にでも包まれているつもりなのか、こっくりこっくりと気持ちよさそうに船を漕ぎ始める。 「俺まで眠くなってきた。昨夜はほとんど寝てないからな……」 「……仔猫は俺がみてるから、ルカは寝ればいいよ」  心苦しいのかテディが苦笑を浮かべつつそう云うと、ルカは「ひとりじゃ寒いんだよ」と、忌々しげにひんやりとした壁際のベッドを睨んだ。  窓の下に備え付けてあるオイルヒーターは、古い所為かちっとも利かなかった。部屋にはTVもなく、職探しに出ないのならば他にやるべきこともない。  ふたりは互いを暖めあうためにベッドに入り、一緒にブランケットに包まった。  仔猫がミャーミャーと鳴く声で、もうそんなに時間が経ったのかとルカは時計を見た。  自分も少しは眠ったが、先に寝息をたて始めたのはテディのほうだった。今も傍らで眠っているその横顔を見てルカはふっと笑みを溢すと、見ていた求人情報の載った新聞をくるくると丸め、屑籠に突っこんだ。  ミルクを飲んだあと、しばらくもぞもぞと動きまわっていた仔猫たちを、テディが買ってきた小さなネズミのぬいぐるみでじゃれさせる。一度ノミ取り用のコームで梳かしたので、レッドタビーの毛はまるでタンポポの綿毛のようにふわふわしていた。手を傷だらけにしてくれながら、偶に自分を見上げてミャーと鳴く蒼い瞳がたまらなく愛おしい。  ルカは、情が移り始めている自分に気づいた――これはまずい。早めになんとかしたほうがよさそうだと考えながら、ちらりとベッドを見やる。ベッドの上で、テディはうん……と寝返りをうち、薄目を開けてこっちを見た。 「……ごめん、俺も寝ちゃった。もうミルクやったの?」  目を擦りながら、すぐにそう尋ねたテディに、ルカは微苦笑する。 「ああ、しっかり飲んで少し遊んでたところだよ。もうそろそろまた寝るんじゃないかな」  眠そうな顔になってきた仔猫たちを箱に戻し、ルカは云った。 「なんか、野良猫とかを保護するような団体ってあるよな。そういうところを探して連絡して、引き取ってもらおうと思うんだ」  テディは半身を起こして坐り、ブランケットのなかで膝を立てた。 「月曜日に動物病院に行けば、そういうことも聞けると思ってたんだけど……」 「待ってられないよ、もう。早いほうがいい。さっきの冊子とかになにか載ってないのか?」  テディは何故か少し不満そうにテーブルの上を指さした。ルカが立ってそれを手に取り、ぱらぱらと捲ると最後のほうのページに動物愛護団体や、個人のボランティアの連絡先などがいくつか載っていた。  最初にミルクを作るとき、ずっとこれを手に熱心に読んでいたテディが気づいていないはずがなかった。やっぱりなと溜息をつき、ルカはここからそう遠くない住所をみつけ、そこに連絡しようと決めた。 「電話かけてくる」 「……仔猫、どこかへやっちゃうの?」  本当は飼いたかったのだろう、少し寂しそうに云うテディを見る。 「そうだよ。だって、飼えないよ。俺たち仕事をみつけなくちゃいけないし、この部屋にずっとどっちかがいるわけじゃないだろ。それに、こんな陽あたりの悪い狭い部屋に閉じこめておくなんて、猫だって嫌がるさ」 「そう……だよね」  箱の中で小さな丸い毛玉がくー、すーと、微かに膨らんだり萎んだりするのを眺めるテディを見て、ルカは折り目をつけたその冊子のページをもう一度開いた。 「聖アンナ教会……ダニューブ川を渡ってすぐのところらしいから、うまくすれば今日中にでも連れていけるよ。こんなふうに冊子に載せてるくらいだ、きっと他にも猫がいっぱいいるよ。こいつらの親代わりになってくれる猫だってきっとな」  それを聞いて納得したのか、テディは頷き、電話をかけに行くルカを笑って見送った。

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