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ハハハ!ついに見つけたぞ 0.3

狼狽える僕に彼女は 「芳川です」  と名乗った。 「よ、芳川さん?」 ーーそうだあの、木で鼻を括ったようなお役所対応の、阿久津さんの同期……?  今朝、もっと遠くへ行ってしまったばかりの元恋人、唯人さんと別れてから会社でリストラに遭ってからこの中毛第九合唱団に入団するまでの半年間、僕は中高年の引きこもり状態で、元々少ない友人知人とさらに疎遠になってしまい今日の演奏会のチケットを売る先にも困って いた。そこに、50枚の最上席チケットを買い取る申し出をしてくれたのが僕の吹奏楽部時代の先輩で伝説レベルに優秀な男、阿久津さんだった。  だが、それらは全くの嘘で阿久津さんは十年前に職場を辞めた後、同期や後輩に大言壮語しては寸借詐欺を繰り返す困った男となっており所在も不明だった。  僕のせいで危うく紙屑になりかけた総額21万円相当のチケットを団の運営の皆……推しメン兼子育て仲間(?)のチギラさんや、恩人の花田さん、上州弁の鬼・斎木さん、そして事務局長の志塚さん達が頑張って売り捌いてくれたお陰で、今日の熱演が成功した。  芳川さんは阿久津さんと同じ省庁に勤める同期だそうだが、電話を掛けた時には「知らんがな」って態度だったので今日ここに来ているのが阿久津さんの来場以上に謎だった。 「あの、なんでここにいるんですか?」 「それ、今要る情報?」「……いえ」  わざわざ東京から聴きに来てくれたお礼を言うべきだった?と思いながら立ち上がったとき、足首と甲が痛んだ。飛び降りた時に痛めたのだと思った。  追いかけてきたチギラさんが、背中の方で僕の名前を呼んでいるのが聞こえた気もしたが、僕はそれにも痛みにも構わず走る芳川さんを追いかけて会館の外に出た。  会館の周囲を二手に別れて探したが、阿久津さんらしき人の姿はもうどこにも見あたらなかった。 「通りに出てバスに乗ったのかしら。どちらにしても駅に向かうわね。タクシーで追いかけるわよ」  だが、会館のタクシー乗り場には年配客の列が延々とできている。目と鼻の先の国道に出たところで、車社会の地方都市で流しのタクシーが運良く捕まる確率は測定誤差以下ーーと、芳川さんに説明すると彼女は頭を抱えた。  もはやこれまでか。  ふと正面玄関前を見ると、こちらは自宅からの送迎の車や予約のタクシーでやはり混雑している。その中に、食事会という名のダメ出し会場で僕を待ち構えるべくレストランに向かう実家の家族ーー毒親傾向の両親と姉、こないだまで僕の家に転がり込んでいた甥の奏(この二人は僕の味方だ)がいた。  あの、熱演の後のいつまでも続く熱狂的なカーテンコールーーというよりは、プロの指揮者とオーケストラ、アマチュアの僕ら合唱団、そして客席までもが一体となり渾身で表現したのはベートーヴェンの音楽を借りた叫びと願いのようなものだったと僕は確信する。  音は生まれた瞬間に消えてしまうけど、体験や感情は思い出と共有される。それを確かめ、皆で居合わせたこの一瞬を惜しむかのような温かい輪ーーその場に当時者として息子がいたことに対する感動や演奏会の余韻よりも、帰り客の混雑のピークを避ける快適さや利便性を両親は選んだのだ。  と、思わなくもないが別に今に始まった事ではないし、この状況下ではむしろ感謝だ。 「あれに乗りましょう!」  今度は逆に僕が芳川さんの腕を引っ張り、実家が予約したタクシーに割り込んだ。 「僕も藤崎です!駅に行ってください」 「ナオ?」「ナオさん?」 「ちょっと直!何してるの!お姉ちゃん達が乗れないじゃないのよ!」  母がヒステリックに叫んだのと、僕が姉に「阿久津さんが見つかった!追いかけないと」と説明したのとが同時だった。  姉は「マジ?」と聞き返し、ゲラゲラ笑いながら 「運転手さん。この子の言う通りに走ってあげてください」  と頼んでくれた。  タクシーが走り出した後、母の金切り声と父の怒声が聞こえて我に返り、後々の恐怖に震えたがーーそれにしても母の「お姉ちゃん達が乗れない」というのはとりあえず、席が足りなかろうが何があろうが自分は先に乗ったり席に座ったりする側だと思ってるからなんだろうなーーとりあえず阿久津さんを捕まえてから考えようと思った。

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