10 / 12
ハハハ!ついに見つけたぞ 0.91
ようやくギプスがとれ、二度目の馘 を覚悟した配達のバイトに復帰することができた。
石井さん曰く、
「病気と怪我は仕方ないわ。いつ何があるかわからないのはお互い様だもの。今後気をつけて」
との事だった。足を向けて寝られない人が増えっぱなしだ。
足を向けられないと言えば、志塚さんも団員に片づけや撤収の指示を出す一方で、ロビーで転倒した人のケアをしたり畝川先生と一緒に六道先生やソリスト、オーケストラの皆さんに謝って回ったり……と相当大変だったという。
「皆さん、怒ってはいなかったのが不幸中の幸いですよ」
「演奏会は成功して、終わった後の出来事ですしね。ただただ驚かれていた、という感じで」
「本当にすみませんでした」
ダイネ・ツァオベルでまた事務局の集まりがあるというので僕は改めてお詫びに出向き、一人一人に頭を下げた。
「お客さんの中にはサプライズ演出だと思った方もいたようでね」
暖かそうな袷 の作務衣を着た畝川先生は、何故か嬉しそうだ。
「翌日の新聞の地方欄見ました?『熱狂の第九演奏会。合唱団員、感激のあまり客席にダイブ』なんて」
チギラさんは皆のためにコーヒーを淹れながら話を聞いておかしそうにくすくすと笑っている。
「……新聞取ってないんで」
「今どきの奴 はしょうがねえんな。どれ、確かスクラップがどこかに……」
仕事帰りらしく、本番以来のスーツ姿で現れた斎木さんが鞄のなかを探し出した。
「い、いえ、結構です!読む勇気ありませんから」
「藤崎さん。これお願い」
チギラさんに頼まれてテーブルにコーヒーを運んだ。カウンターに戻って来るとチギラさんは「ほら。皆、怒ってなかったでしょ」と言って僕の分を出してくれた。
「畝川先生だってお詫び行脚の後でお腹抱えて笑ってたしね」
チギラさんは悪戯っぽく小声でそう言うと、専用のマグカップに淹れた自分の分を啜った。 僕はカウンターに掛けてコーヒーの香りを楽しんだ。春はまだまだだが花の季節特有の浮遊感を先取りするような、軽やかで甘い香りだ。
「六道先生は、次回も依頼があれば来たいとおっしゃってくださってます」
畝川先生は仏の笑顔でその場の皆を見渡した。
「これはもちろん、騒動を面白がってのことではなく我が合唱団の実力を評価し、伸び代を期待してくださってのことなんですよ」
よかったあ……。
迷惑をかけてしまった影響は最小限で済んだようだし、安心して団を去れる。次からは観客として大人しく応援する側に回……
「そういうわけで藤崎さん、今年は挽回の年ですね」
畝川先生が突然、僕にまた話を振った。
「はい。……え、いや、いいえ……ええ?」
志塚さんや花田さん始め、集まった全員がうんうんと頷いている。僕はぽかんと間抜けな表情のまま先生を見返した。
「もう第九歌わないないなんて言わないよね?皆にあれだけ迷惑かけたんだから」
チギラさんはとぼけた表情でさらっと言ってのけた。
「……」
「提案なんですが、今年は藤崎さんにも事務局を手伝ってもらえないかと思って」
「あらいいわね」「若い力か。いいな」「この団も安泰だな」
「えええええっ?」
百人単位の団員の統率と練習計画、プロの音楽家から大規模ホール、町の印刷屋までありとあらゆる交渉と折衝を担う合唱団の心臓部、「ずば抜けて仕事ができる人集団」である事務局を僕が?
「む、無理……」
「いきなり運営の仕事をやってくれっていうんじゃないんだ」
チギラさんは天使のような無垢な笑みを浮かべた。何だか怖い。
「チラシとか資料作りとか。作業の手伝いだけでも助かる」
「……」
「それにスナオさん。確か僕に借りがあったと思うんだけど」
カウンター越しに長身を屈めたかと思うと、どこかねっとりとした低温で耳元に囁いて、パッと離れた。
いや、この状況下でなんでそんな最高レベルの「推しのために死ねそうな笑み」ができるんだよう……この人。
ともだちにシェアしよう!