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第6章 それでも前を向いて歩くために……3
「そんなこと言ってもバイで既婚者とか、すでにパートナーがいる人間が浮気したり、不倫相手を見つけたりするのに使ってるパターンもあるんでしょ。詐欺やマルチ商法、サクラだって横行してるんじゃない?」
「そんなのSNSや掲示板でも同じだろうが」とバーテンが海老天を口に放り込んだ。尻尾をバリバリと嚙み砕いて飲み込む。「見合いだろうが、合コンだろうが関係ねえ。結婚詐欺やら、遊びの恋愛を楽しもうと考える輩は一定数いる」
「だとしても、そういうヤバい連中と遭遇する確率や絶対数が違うんじゃないの? だとしたら、やっぱりやる意味なんてないよ」
「けど、晃嗣。おまえ、どちらかっていうとインドア派だろ。ゲイ向けの見合いや合コンに参加しないのも『価値観が合うかどうかもわからない相手と話しを合わせて、人間関係を一から構築するのが苦痛だ』とか、『タイパが悪すぎる』って言ってたよな。マッチングアプリのほうが安全そうだし、おまえの気にしているところもカバーできるんじゃなういか?」
横槍を入れてきた康成の言葉に耳が痛くなり、目線を窓の外にやる。庭園風の景色を眺めるふりをしていればバーテンに「都合が悪いとダンマリかよ」とツッコミを入れられる。
「牧雄、よしなさい。とにかく“虎穴に入らずんば虎子を得ず”。やることは大体あんたがSNSでやってきたことと大差ないはず。やってみなさいよ。無料でできるんだから」
「無料 ほど怖いものなんてないでしょ。後で莫大な額を請求されたり、変なものに勧誘されるんじゃないの?」
「じゃあ、あんたは料亭のご飯、食べなくていいわよ」とマスターに皮肉を言われる。「他は知らないけど、ガニュメデスはそういうのはないわよ。じゃなきゃ、あんたに紹介しないわよ。結婚相談所を立ち上げた社長とね、結婚相手紹介サービス企業に勤めていたあたしの友だちとアプリ開発会社のエンジニアのリーダーが大学の同期でね、仲がいいわけよ。で、今回、業務提携してガニュメデスができたわけ。大学生から社会人の2、30代をターゲットにしてるの。今の晃くんにピッタリよ」
その話を訊いてもぼくは「じゃあ、やってみよう!」なんて気にはなれなかった。なんでこんなことをマスターがするのだろうと真意をさぐるために、マスターの顔をジッと窓越しに見つめた。
「やってて合わないと思ったらやめればいいんだから、とりあえずやってみなさいよ。合わないときは、またべつの手を考えればいいんだから」
窓ガラスに映ったマスターがわさびを溶いた醤油をつけたマグロを口へ運んだ。
「忙しい現代人のタイパ、コスパを考えて効率よく相手を見つけられるマッチングアプリと、結婚やパートナーの縁を結ぶアドバイザーがいる結婚相談所のいいとこ取りだって話よ。後はあんたがやるか、やらないか考えなさい。少なくとも今回のあんたがうやった最悪命を落とすかもしれないようなことは、起きにくいはずだけどね」
「そうだよな、マスター。つーわけで、さっさと目の前のもん食えよ、晃嗣。もったいねえぞ」
すでに定食のメニューを食べ終え、デザートのゆずのシャーベットを口にしているバーテンが手にしているスプーンで差される。
眼前にある料理はいかにも美味しそうだ。きっと味がわからなくなる前だったら、すぐに食べ始めた。でも……。
「無理だよ。ぼく、今、ご飯の味とかわかんないし。口の中に入れても気持ち悪くなるだけだから食べられないよ」
「晃嗣、大丈夫だって。僕も病院の調理師さんとか、看護師さん、管理栄養士の上司にもいろいろ訊いてからエリナに作ってもらったんだ。一口だけでいいから、なんか食ってみろよ」
切実な表情を浮かべる康成の言葉を耳にして、ぼくはスプーンを手に取り、茶碗蒸しをすくって口の中へ入れた。
結局、味はわからなかった。だけどツルリとした触感やゆずのすっと鼻を通る香り、出汁の食欲を誘う匂いは感じることはできた。
「どうだ、食えそうか?」
「うん……。これなら大丈夫。食べられそう」
「よかった!」と破顔する康成にお礼を言う。航大と寝てしまった翌日から食べ物の味がわからなくなった。あの日以来、まともに食事をとれていなかったぼくは、あっという間に茶碗蒸しを平らげてしまった。
ずっとおなかなんて空いていないと思っていたのに、エリナの作る茶碗蒸しを食べたら他のものもなんだか食べたいと思うようになり、豆腐とわかめの味噌汁を口に含んだ。小さめに切られている野菜と肉の入った肉じゃがと白米を咀嚼する。味がわからなくても食欲をそそる香りややさしい舌触りのおかげで、普通に食べることができた。
「ゆっくり嚙んで食えよ。急ぐと腹もビックリするからな」
「ったく、心配ばっかかけるやつ。マスターたちはお人好しだな」
「なんだかんだ言いながらあんただって、ここに来てるんじゃない」
「それはエリナの作る飯が食いたかったからで……」
三人のやりとりに思わず苦笑してしまう。すると三人の目線がこちらに集まった。
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