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第6章 それでも前を向いて歩くために……4

「晃嗣、ようやく笑ったな!」 「えっ……」  左手で自分の頬に触れる。 「ああ、たしかにな。ここんとこ、ずっと人を舐め腐って小馬鹿にした悪役みたいなツラか、能面みてぇなツラをしているかだったもんな」 「牧雄、口が悪いわよ。でも――そうね。不器用な笑みを浮かべて航大くんのことを夢中になって話していた頃と同じ笑顔だったわね」  バーテンやマスターの言葉にはっと気づかされる。  いったい、ぼくはいつから笑っていなかったのだろう? 笑うのはいつぶりだろう?  もとから感情の起伏がとぼしいし、顔に出にくいたちだ。  怒り心頭になったり、心の底から不快に思うときは表情にも出る。アルバイト中や、航大の友だちと話すときに笑みを作ることだってできる。  だけど、幼少期は心から笑うことが、ほとんど無に等しかった。幼稚園や小学校を出るときに配布されたアルバムの中のぼくは、表情の抜けた、何を考えているかよくわからない顔をしていた。  今でも声を上げて楽しそうに友だちや恋人、家族と笑う人たちのことが理解できない。  それでも航大と出会って彼と過ごしていくいちに、じょじょに笑えるようになったんだ。彼のそばにいたときだけ、なぜか胸がじんわりと温かくなって、ほわほわした不思議なものを感じられた。 「晃くん、心の傷もね、身体の傷や病気みたいに治すのに時間がかかるのよ。一瞬で傷を治す魔法のような方法はないわ」 「マスター」 「怪我や病気の種類によっては、完治させるのに年単位の時間が必要になったり、現代の医学では治せないものもある。それに小さな怪我や、ただの風邪みたいな病気も、元気のある人なら二、三日で治る。でもその小さな怪我や、ただの風邪で命を落とす人もいる。あなたが今回負った心の傷がどんなものかは想像できる。でもね、その傷がどれくらいの期間で治るのか、それとも一生治らないのかはだれにもわからない。多分、あなた自身にもね」 「……そうだね」 「だとしても重い怪我を負ったり、病気にかかった人を何もしないで放っておくなんてことは、普通はしないわ。医師や、家族、パートナー。ときには友だちや職場の人間もね。何より当事者が、もてる力の分だけ最善を尽くすわ。どんな結果になろうと。あなたが、あのアパートから出てこられなかったら、それもかなわなかったけど……あなたは自分の意思で、足でここまで来た。だとしたら、新しくできること・できそうなことからやっていかない?」  めずらしく柔和な表情を浮かべ、幼子を諭す母親のようなマスターの声色を耳にする。  ぼくは茶碗蒸しの空になった真っ白な陶器の器から、パンフレットのほうへ再度目線を落とした。

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