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第6章 それでも前を向いて歩くために……4

「晃嗣、大丈夫だって。俺も病院の調理師さんとか、看護師さん、管理栄養士の上司にもいろいろ訊いてきたんだ。で、その話を参考にしながらエリナに作ってもらった。一口だけでいいから、なんか食べてみろよ」  切実な表情を浮かべる康成の言葉を耳にして、ぼくはスプーンを手に取り、茶碗蒸しをすくって口の中へ入れた。  結局、味はわからなかった。だけどツルリとした触感や柚子のすっと鼻を通る香り、出汁の食欲を誘う匂いは感じることができた。 「どうだ、食べられそうか?」 「うん……これなら平気」 「よかった!」と破顔する康成にお礼を言う。  航大と寝た後から食べ物の味がわからなくなった。以来、まともに食事をとれていなかった。何も喉を通らなくて水すら飲まないで過ごす日もあったくらいだ。  それなのに、あっという間に茶碗蒸しを平らげることができた。  おなかなんて空いていないと思っていた。それなのに、エリナの作った茶碗蒸しを食べたら、なんだかほかのものも食べたいと思い始めた。  豆腐とわかめの味噌汁の入ったお椀を手に取ると、じんわり手の平が温かくなる。熱々の味噌汁を少しだけ口に含む。出汁と味噌の香りがふわっと広がった。  ついで小さめに切られている野菜と肉の入った肉じゃがと白米を咀嚼する。味がわからなくても食欲をそそる香りややさしい舌触りのおかげで、普通に食べることができた。 「ゆっくり嚙んで食べろよ。急いで食べると胃や腸もビックリするからな」 「ったく、心配ばっかかけるやつだな。マスターも、康成もとんだお人好しだ!」 「あら、なんだかんだ言いながらあんただって、晃くんのことを心配してここに来たんじゃないの」 「そっ、それは! エリナの作る飯が食いたいからであって、このポンコツ野郎を心配したわけじゃ……」  三人のやりとりに思わず苦笑してしまう。すると三人の目線がこちらに集まった。 「晃嗣、ようやく笑ったな!」 「えっ……」  左手で自分の頬に触れる。 「ああ、たしかにな。ここんとこは、ずっと人を舐め腐って小馬鹿にした悪役みたいなツラか、能面みてぇなツラをしているかの二択だったもんな」 「牧雄、口が悪いわよ。でも、そうね。その顔をまた見れて、よかったわ。安心した」  バーテンやマスターの言葉にはっと気づかされる。  いったい、ぼくはいつから笑っていなかったんだろう?  もとから感情の起伏が乏しいし、顔に出にくいたちだ。  怒り心頭になったり、心の底から不快に思うときは、さすがに表情にも感情があらわれる。それにアルバイト中や、航大の友だちと話すときには笑みを作ることだってできる。  だけど、幼少期は心から笑うことが、なかった。ほとんど無に等しかった。幼稚園や小学校を出るときに配布されたアルバムの中のぼくは、表情の抜けた、何を考えているかよくわからない顔をしている。  いまでも声を上げて楽しそうに友だちや恋人、家族と笑う人たちのことが理解できない。  航大と出会って彼と過ごしていくいうちに、じょじょにだけど笑えるようになった。彼のそばにいるときだけ、なぜか胸がじんわりと温かくなって、ほわほわした不思議なものを感じられた。 「晃くん、心の傷もね、身体の傷や病気みたいに治すのに時間がかかるのよ。一瞬で傷を治す魔法はないわ」 「マスター?」 「怪我や病気の種類によっては、完治させるのに年単位の時間が必要になったり、現代の医学では治せないものもある。小さな怪我や、風邪みたいなありふれた病気も元気のある人なら二、三日で治る。だけどその小さな怪我や、風邪で命を落とす人もいるの。あなたが今回負った心の傷がどんなものかは想像できる。でもね、その傷がどれくらいの期間で治るのか、はたまた一生治らないものなのかは、だれにもわからない。多分、あなた自身にもね」 「うん……そうだね」 「だとしても重い怪我を負ったり、病気にかかった人を何もしないで放っておくなんてこと、普通はしないわ。医師や家族、パートナー。ときには友だちや職場の人間もね、具合の悪い人に元気になってほしいって思うのよ。何より当事者が、もてる力の分だけ最善を尽くすわ。どんな結果になろうとね。あなたが、あのアパートから出てこられなかったら、それもかなわなかったけど……あなたは自分の意思で、足でここまで来た。だとしたら、新しくできること・できそうなことからやっていかない?」  めずらしく柔和な表情を浮かべ、幼子を諭す母親のようなマスターの声色を耳にする。  ぼくは、茶碗蒸しが入っていた真っ白な陶器の器からパンフレットのほうへと、目線をやった。

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