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101 サイコパスな女(第三章)
香港、中環 地区――。
深夜の高級ホテル、ダブルベッドの上に女はいた。情事の後、隣には男が寝転がって煙草を吹かしている。
「本当にやってくださるのね?」
甘ったれた声で男の裸体にしなだれかかる。女の黒髪が筋肉の張った肩先をくすぐった。
「あー、分かってるって」
そういう契約だしなと言って、男はかったるそうに紫煙を吐き出した。
「けど、ンなことしておめえの気が治まるってのか? 死んじまった親は戻っちゃこねえだろうによ」
「いいのよ。あの人にも私と同じ思いを味わわせてあげられればそれでいいの。報酬は予定通り支払うわ。今更嫌だなんて言わないでちょうだいよ。あなただけが頼りなんだから」
「ふん……分かってらぁな。それにしてもあの周焔 がいる九龍城砦の地下街ってのが厄介ではあるけどな」
「大丈夫よ。周焔 はあの街の統治者よ? 忙しい彼のことだもの、子供の一人くらいいなくなってもそうそう気に掛けてる暇なんかないわ」
「まあな。で? 殺 るのはガキ一人で間違いねえな?」
「ええ、そう。名前は雪吹冰 。登下校時には警護が二人付いてるから注意してね」
「二人くれえ、この俺にかかりゃワケもねえさ。けど護衛付きとはまた豪勢なこった。どこぞの偉いさんの息子ってわけか?」
「まあそんなところよ。あの街には夜の商売の経営者も多いんですもの。富豪の巣窟よ」
子供に護衛が付いていたとしても驚くことじゃないわと訴える。
「それよりも手順を確認しておきましょう。私は近くで待機していればいいのね?」
「ああ、まずはその護衛を眠らせる。んで、ガキを殺 ったら退路だけはしっかり確保してくれよ」
「大丈夫。抜かりはないわ。私が車で待機しているから、あなたは迅速に車まで戻ってちょうだい」
「了解ー」
気だるげな空返事を返しながら男は煙草を捻り消した。
◆ ◆ ◆
闇の殺し屋稼業で生きているその男に女からの連絡が入ったのはちょうどひと月ほど前のことだった。
依頼の内容はこうだ。
とある男に両親を殺された。その報復として男の大事にしている家族を殺して欲しい――というものだった。
女の名は”アリス”といった。――といっても、偽名である。男は言われたままを信じていたようだが、実にこの女の言うことはまるきりデタラメである。まあどこから見てもアジア人の女の名が”アリス”ということ自体本名ではないのだろうと思えるわけだが、素性から依頼に至る経緯までのすべてが嘘で塗り固められている。つまり、女の両親は健在で、殺されたなどというのは真っ赤な嘘だ。本当の目的は周焔 に対する個人的な逆恨みからくる狂気の企てであった。
ターゲットの雪吹冰 というのは女にとって非常に邪魔な存在だった。学生の時分から密かに想い続けた相手、周焔 が大事にしている――いわば恋敵だからだ。
女はこれまでにも数々の源氏名や偽名を乗り換えてきたわけだが、その正体はなんと焔 の統治する地下街でホステスをしていた白蘭 であった。
数ヶ月前、女は一度この雪吹冰 を周焔 の邸から追い出そうと企てて失敗。それが元で地下街を追われる羽目となったのだ。
リリーという同業のホステスを雇い、一度は冰 を追い出したものの、周焔 は再び彼を邸へと連れ戻した。リリーを雇ったことも地下街全体の噂として広まり、九龍城砦を治める周一族の親近者に手を出したかどで、同業のホステスやクラブオーナーたちからは裏切り者の烙印を押されて信頼を失った。もうどこの店でも彼女を雇ってくれる者はいなくなったわけだ。と同時に、周焔 に対する長年の想いは木 っ端微塵 に砕け散ってしまうという結果を招いたのだった。
原因はすべて、降って湧いたように現れた一人の少年だ。カジノの鬼才ディーラーと崇められた黄 氏が養子にした雪吹冰 。こうなったらその冰 という目の上のたんこぶを葬ってしまうしかない。そう考えた女はプロの殺し屋を雇い、報酬として決して少なくはない大金に加え、自らの身体も差し出して報復を――というよりも、正しくは逆恨みを遂げようとしているのである。
殺し屋の男には冰 のバックに城壁の皇帝・周焔 がついていることは告げていない。単に高校生の少年一人を亡き者にして欲しいと頼んだだけだ。
何も知らない周焔 と雪吹冰 の頭上に遠雷が音を忍ばせて襲い掛かろうとしていた。
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