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「どうだろう、冰 。俺がお前さんを遊郭街から救い出したからとか、世話になっているからとか、恩を感じる必要はねえ。逆に――恩があるから本心が言えずにお前さんに我慢を強いることの方が俺にとっては残念なことだ」
だから本当のところを言って欲しい。そんな焔 の気持ちが伝わったのか、冰 もまた遠慮のない心の底にある思いを素直に話さねばいけないと思ったようだった。
「焔 さん、僕は焔 さんのお側に置いていただけることを心から有り難く、嬉しく思っています。ディーラーではなく秘書としてお側にいられるのであれば、それもたいへん光栄なことです。もちろん焔 さんに恩を感じているのも事実です。ですが、僕は恩があるから無理してお側にいるわけではありませんし、本当に嬉しく思っておるのです」
「冰 ――」
それは誠か――? といったように逸った瞳を向けてくる焔 に、冰 は大きくうなずいてみせた。
「――ではもうひとつ聞かせてくれ。お前さんが望まないこととはなんだ」
「――? 望まないこと……ですか?」
「うむ。望まないという言い方が適当でないなら――そうだな、嫌だと思うことと言えば分かりやすいか」
「嫌だと思うこと……でございますか?」
「そうだ。お前さんにとって辛く苦しく思えるようなことだ。こんなふうになったら辛いと思うことでもいい。どんなことでも遠慮なく聞かせて欲しい」
「辛い……こと」
冰 は少し考え込んでいたが、思い切ったようにして遠慮がちに口を開いた。
「こんなことを……正直に申し上げていいのか……分かりませんが、僕が辛いと思うことは……焔 さんのお側にいられなくなること……です」
伏し目がちに瞳を震わせるその様子に、焔 は図らずも高鳴る心拍数を抑えることができなかった。
「……俺の側にいられなくなることが辛いと思ってくれるのか?」
「……はい」
「では――ずっと、このままこの邸で暮らし、俺の側にいることはお前さんにとって苦ではないのだな?」
「もちろんです! 僕にとっては何より有り難くて嬉しいことです!」
はっきりとした口調で逸るようにうなずくその様は、焔 にとって何よりも嬉しい言葉に他ならない。だが、冰 は辛いのはそれだけではないと言った。
「それだけではない?」
「はい……。もうひとつは僕が焔 さんのお邪魔になってしまうことです」
「邪魔になる? お前がか?」
そんなことはあるはずもない。
「例えば……今日のように僕が原因で焔 さんが危ない目に遭ったりするのは……辛いです。今日だって本当は狙われたのは僕だったのですよね? 焔 さんや李 さんたちが事前に守ってくださったので僕は無事でした。ですが――! 焔 さんにもしものことがあったらと思うと……」
居ても立ってもいられない――その言葉に代わるように華奢な身体を小刻みに震わせている。
「それだけではありません。僕やじいちゃんがお側にいることで……ゆくゆくは焔 さんの大切な方との縁 をお邪魔してしまうようなことがあれば……申し訳ないと思います」
「俺の大切な縁 ……?」
「焔 さんが奥方様をお迎えになるような場合に……僕がお側にいては何かとご迷惑をお掛けするのではないかと……」
焔 はもう堪らなくなって、ついぞ両腕を伸ばしてはこの健気過ぎるともいえる少年を抱き締めてしまった。
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