149 / 158
148 茨の道を
時を遡って一年前のことである。
飛燕 と紫月 に連れられて日本へと逃れた冰 は、遠く香港で苦渋を強いられている焔 のことを気に掛けながら心痛む思いに苦しんでいた。
「紫月兄様 、飛燕 様……。お願いがございます。僕に武術を教えていただけないでしょうか」
「――武術だと?」
「冰 君……武術って……いったい」
二人ともに驚き顔で冰 を見やった。
「はい……、僕は焔 さんが苦しんでいるというのに、何も出来ずにいます。僕が香港に帰れば羅鵬 という人たちに捕まって酷い目に遭わされる可能性があるというのは……焔 さんの言う通りだとも思います。ですが、だからといってこのまま安全な日本で焔 さんの無事を祈るだけだなんて……情けないのです! 僕が強ければ……例え敵に捕まっても力で捩じ伏せさせられるだけの技があれば……そう思ってしまうのです」
冰 とて自ら望んで喧嘩や戦をしたわけでは決してない。だが、もしも紫月 や飛燕 のように圧倒的な剣術や体術で敵と向かい合うことができれば、少しでも焔 の力になれるのではと思う。よしんば力にこそなれなくとも、彼の側で暮らすことはできるのではないか――そう言うのだ。
「これまで武術にはまったく縁がなかったこんな僕ですが……一生懸命精進いたします! どうか僕に……武術を教えてください! どんなに厳しい稽古でも絶対に根を上げずに励みますゆえ……!」
冰 の気持ちは痛いほどよく分かる。分かるが――いくら厳しい稽古に堪えるといっても、ほんの数ヶ月かそこらで紫月 や飛燕 のような圧倒的な技を身につけるのはさすがに無理があろう。
「――だがまあ、何もしないよりは当然良い。武術を身につけたいというのであれば喜んで指導しよう。だがな、冰 君。だからといってそうすぐに皇帝殿の元へ帰ることは望めん話だと思うぞ」
それだけは念頭に置いてくれという飛燕 に、冰 は辛そうに表情を翳らせた。
「やっぱり……そう上手くはいかないでしょうか。ですがそれでも構いません! 例え少しでも力をつけて、焔 さんのお役に立てるよう……」
という以前に、そうでもしていないといられないという冰 の気持ちは聞かずとも手に取るようだ。
「分かった――。では稽古をつけよう」
承諾を口にした飛燕 の傍らで、紫月 もまた共に励もうと言ってくれた。
「冰 君、俺も一緒に初心に返って稽古するよ! がんばるべな!」
「紫月兄様 。はい、はい――! よろしくお願いいたします!」
ところが――だ。手を取り合う三人の元へ黄 老人がやって来てこう言った。どうやら老人は物陰から今の会話を耳にしていたようだ。
「冰 ――。武術も確かに大事じゃが、お前さんにはその前にわしから大事なことを教えねばならん」
「じいちゃん……? 大事なことって……」
「――わしもこの歳じゃ。正直なところ先がいつまであるか分からん身じゃ。できればお前さんには知らないまま王道を歩いてもらいたいと願うておったが」
老人は、天に召される前にどうしても教え伝えねばならないことがあると言って、皺の深くなった瞳で冰 を見つめた。
ともだちにシェアしよう!