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それは老人にとっても非常に心苦しい判断だったようだ。
よいか、冰 ――。
わしはこれまでお前さんにディーラーの技を仕込んできた。幼かったお前さんにとっては厳しい訓練であったろうと思う。
じゃが、お前さんは弱音ひとつ吐かずによく耐えて、わしの理想とする王道をいくディーラーの技を身につけてくれた。
できることなら――そのまま堂々と陽の当たる王道だけを歩む立派なディーラーになって欲しいと、今でもそう思うとる。
じゃが、これから仕込むのは、わしがお前さんに教えてこなかった王道とは真逆の――邪の道じゃ。
つまりイカサマ、邪道という意味だ。
お前さんは若くして既に腕のいい最高峰のディーラーを凌ぐ技を身につけてくれた。
そのような最高峰の技を持つディーラーをも破る邪道を――お前に仕込もう。
老人はそう言った。
「じいちゃん……」
「厳しい訓練になる。しかも本来なら数年、数十年掛かることを短期間ですべて身につけねばならんやり方じゃ。技だけではなく、どのようなタイプの対戦であっても即座に相手に合わせて自分を変え、相手を呑み込んでその心をも折る――下手をすれば元からある人格を見失ってしまう恐れを伴う危険な修行といえる。一歩間違えば本来のお前自身を損い、今のやさしい心根を持ったお前を愛してくれている皇帝殿を失望させる結果にもなり得る。つまり、お前さんは自分自身を見失うことのないまま、時と場合によって臨機応変に――しかも即座に自分を切り替えられる役者的な要素も身につけねばならん。それこそ気が狂うほどに辛く険しい道じゃが――」
ついて来られるか――?
真剣そのものの目で老人が訊く。
「……邪道……。じいちゃん、それを覚えれば……僕は焔 さんの力になれるのですか」
「――ああ。必ずやそうなれるように教え込むつもりじゃ」
「……分……かりました。どんな厳しい訓練でも喜んで励みます。そして必ずや――焔 さんのお力になれるよう――」
「そうか。よくぞ申した。ではこれよりはわしを親と思うな。わしはお前の師匠じゃ。師匠の言うことは絶対。何があっても弱音は決して許さぬ――」
「はい。はい――! 師匠、お願いいたします!」
「うむ。では稽古じゃ」
じゃがな、冰 。邪道を知って尚、それを使わずに王道だけで勝負できる腕前になって欲しい。そうなれるよう教え込む腹づもりじゃ。
例えどんなに辛かろうが負けずに乗り越えて欲しい。
わしとて心を鬼にして――お前と二人、茨の道を進む覚悟じゃ――。
この日から黄 老人と冰 の地獄のような特訓が幕を開けることになったのだった。そして合間には飛燕 から武術の稽古をつけてもらうことも諦めてはいない冰 だった。
まさに地獄とも茨ともいえる険しい道が目の前に立ちはだかる。それでも冰 は弱音ひとつ吐かずに歯を食いしばって試練と闘った。過酷過ぎる毎日の中で体重は落ち、頬も痩けて、元々細身だった身体つきが気の毒なくらいに痩せ細っても尚、冰 はこの茨の道を進み続けることを諦めなかった。
老人はまさしく鬼となり冰 を指導した。飛燕 は老人にこそ及ばないものの、時に厳しく、基本的な護身術を教え込んでいった。当の冰 はといえば、体力がついていかなくなり高熱に倒れたり、厳し過ぎる訓練に自分を失いかけることもしばしば――。寝付けず、夜中に何度も飛び起きたり、挙句は夢遊病を患い掛け、うなされたりするのはもはや日常といえるまでに追い込まれていった。だが、その度に紫月 が付ききりで看病し、数日が過ぎる頃からは栄養面からも補足するべく食事の面倒なども事細かに見てやり始めるようにもなっていった。体力面気力面共に紫月 は冰 のサポートに全力を尽くし、まさに彼の影となり日向となって励まし、支え続けた。この兄様 の尽力が無ければ、冰 はとっくに根を上げていたか、あるいは人格を損なって廃人同然になっていたことだろう。
そんな彼らを陰から見守りながら、鐘崎僚一 もまた、一日も早く九龍城砦地下街を取り戻すべく彼のすべきことに精力を注ぐのだった。
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