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「なるほどな。それであんた方は慌てて″嫡子″たる(ひょう)を取り返しにやって来たというわけか」 「……取り返すなどとはお言葉がお悪い。私どもはあの子の為を思ってはるばる日本から出向いて参ったのですぞ? 氷室(ひむろ)の遺産といえば莫大だ。その財産をみすみす妾の子なんぞにくれてやるのは忍びない。正当な継承権を持つ(ひょう)にこそ受け継がせてやりたいという一心でございますよ」  一見、至極真っ当な言い分だが、要は自分たちの手元に入る遺産を増やしたい、ただそれだけの理由であるのが見え見えだ。(ひょう)が本当に氷室(ひむろ)財閥の当主嫡男であるのなら、彼がいるかいないかではこの夫婦に転がり込む遺産の額も雲泥の差となるだろうからだ。要はまだ成人して間もない(ひょう)を上手く利用して、遺産を手にした暁には自分たちがその殆どをせしめるつもりでいるのだろうことが明からさまだ。この夫婦の言動を見ていると、そんな魂胆が透けて見えるようで、それに気付かない(イェン)ではない。 「そもそも――だ。そちらさんの話によると(ひょう)雪吹(ふぶき)夫妻に拐われたということだったが、本当に大財閥の嫡子が拉致にでも遭おうものなら大騒ぎとなろうが? それこそ警察が威信をかけて捜索に当たったはずだ。だが実際はこの香港に日本の警察が雪吹(ふぶき)一家を捜しに来た痕跡は見当たらない」  つまり、捜索自体が成されていなかったということではないか――? (イェン)は目の前の夫婦に冷ややかな視線を向けた。なぜ今頃になってそんなことを言い出したのかとでも言いたげだ。  そうされて夫婦は慌てたように互いを見やる。 「それは……」  女――妻の方――は言葉に詰まったままその先の言い訳もままならないようだ。そんな様子に夫の方が懸命な様子で事情を口にした。 「(ジォウ)殿、実は……拐われたというのは……少々語弊があったやも知れません。実際には妹が雪吹(ふぶき)夫妻に生まれたばかりの赤ん坊を託した――というニュアンスの方が正しいかと……」 「託した?」  であれば、意味合いはまったく違ってくる。女の方は『拐われた』と言ったが、男の方とは少々見解が異なるというわけか。 「……先程も申しました通り、妹はもともと病弱だった上に数多くいた妾たちや親族に気を遣う毎日でした。(ひょう)を孕ったことが分かった時から出産までの間も……周囲から何かにつけて嫌がらせを受けていたといいますか……要は苛めに遭っていたと言っても過言ではありませんでした。そんなわけでしたから、妹は日に日に気持ちを病んでいきました。出産を終えた時には精神的に限界だったのでしょう、このまま生まれた赤子を手元に置いては奴らに何をされるか分からないと言っては疑心暗鬼に駆られるようになっていきましてな」  そのせいでか次第に床から起き上がれないほどになってしまったという。

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